紅の菫が夏の盛りになっても健気に咲いている本丸がある。背も高くなく花も小ぶりではあるが、ほんのりと色づいたその菫が絶えず本丸を彩るために、その本丸は紅菫の本丸と呼ばれるようになった。
そうしていまは肌がかっかと熱を持つ季節を迎えた。紅菫の本丸も連隊戦で忙しい。連隊戦における主戦力は練度をめきめきと上げ始めた短刀であるために、他の刀は駆り出される短刀の補助にあたっていた。今年加わった面影も明石国行や蛍丸と共に、愛染国俊に向かってあれやこれやと声をかけている。
他の刀派である粟田口は当然のこと、長船派は謙信景光、正宗は日向正宗への気遣いで忙しい。
しかし、三条の刀はわりとのんびりとしていた。三条派において唯一の短刀である今剣が今回の戦闘刀員として組み込まれていないためだ。主は練度の差を埋めるためだと説明していたので、そうなのかと呑み込むことしかできない。
内番姿の小狐丸は普段は他の刀剣男士が行う洗濯や掃除といった家事をささやかに手伝っていたが、用済みになると、さて今日はどう過ごそうかとまた思案する。本を読むのも飽きてきた頃合いだ。手合わせに使う道場でも覗いてみようか、と決めたところで初の出陣衣装を着ている三日月を庭で見かけた。いまは緑の手を広げている木の幹に手を当てて、見上げている。
小狐丸は三日月と関わるか悩んだ。だが、結局は歩いていってしまう。
「何をしているのですか」
「おお、小狐丸殿」
振り向いた三日月はどこか嬉しそうだ。彼もまた、暇を持て余していたのかもしれない。
「いやな。鳥は、どこかにいるかと思っただけだ」
「これほど暑いのでしたら、巣で大人しくしているのではないでしょうか」
「そうだなあ。今日も、暑い」
蝉の鳴く声は聞こえないが、照りつける日差しは熱を持ってじりじりと肌を焦がしてくる。小狐丸は三日月が内番姿ではなく、出陣衣装でいるのはなぜだろうと思ったが、三日月の内番衣装もそう変わらないであろうことを思い出した。両方とも全身を覆い隠す。
「そういえばな、以前、演練で不思議な相手を見た」
ふと、三日月が話を変えた。
「その本丸は翠蓮の本丸と呼ばれているらしくてな。翠玉の蓮や睡蓮が本丸を見守っているのだというのだが。その本丸に挑む前に、俺は見たんだ」
「何をですか」
「女の姿をした俺をさ」
面白いだろう? と笑う三日月に小狐丸は曖昧な表情しか浮かべられなかった。まれに、本丸によっては常と異なり小さかったり、異性として顕現する個体もあると聞くが、本当にあったのかと驚き半分、疑い半分の気持ちだ。
三日月は話を続けていく。
「で、その本丸にも小狐丸殿がいて、その小狐丸殿の付き添いとして女の俺は来ていたらしい。大層仲が良さそうな二振りでな、小狐丸殿は俺を衆目から隠したそうにしていて、俺は小狐丸殿にはべって離れなかった。面白かったなあ。また、会えることがあればよいのだが」
「はあ」
小狐丸は吐息のような相槌しか打てなかった。
翠蓮の本丸の方はわからないが、自分たちは恋仲ではない。することはしてしまっているのだが、まだ明確に恋心を打ち明けたことが無かった。小狐丸も、三日月も、互いにだ。それは臆病さが為せることなのか、必要性を感じないからなのかはわからない。
ただ、ずっと。いまのまま、三日月殿が隣に呼び寄せる刀は私であると思っている。他に三日月殿と親しい刀はいくつもあれど、結局三日月殿の傍にいるのは私だという気がしてならない。
それもまた、傲慢なのだろうか。
小狐丸は空を見上げたままでいる三日月を見つめた。話を始めてからこちらを見ようとしない。
「小狐丸殿」
「はい」
「桜の樹の下には死体が眠っているというが、蓮の下には何があると思う?」
「それは……」
答えられなかった。
蓮は泥水を養分として清廉な花を咲かせるが、三日月が求めている答えはそれではないとだけ、分かっていた。
三日月はようやく小狐丸に顔を向けて笑う。「それでよいのだ」と言っているようにも、残念なようにも映る表情を浮かべていた。
三日月殿はなんという答えを欲していたのだろう。
小狐丸の縋る視線を断ち切って、三日月は木の幹から手を離す。さっと、青い狩衣を翻して歩き出す。
その背中を見送るしかできなかった。
もしも、たとえ振られるのだとしてもこの恋情を伝え、縋ることができたなら追いかけることもできたのだろうか。
だが、いまはできない。
胸に宿るこの感情の正体すら見付けていないのだから。
85.あなたに見えますか?
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