初秋を迎えても黄色い藤は絶えず風に揺らされる。そういった本丸であるがために、その本丸は黄藤の本丸と呼ばれるようになっていた。
いつからか、数多の刀が集うようになり、いまでは百という数では追いつかないほどの刀剣男士が人の身で顕現して毎日賑やかに過ごしていた。
だけれど、その中でも一室、静寂に包まれている部屋がある。本丸にある部屋の多くは刀派や逸話によって近しい刀同士の相部屋であるのだが、この部屋はたった一振りの刀が住まっている。
その刀の名を、小狐丸といった。
すでに三日月宗近と番っているのとはまた別の小狐丸だ。こちらは極に至っていて、いまも白いもふもふとした出陣衣装のまま部屋で正座をしている。
目の前にあるのは文机。
そうして、千切れた金色の髪飾りであった。房には乾いた赤が付着していて、結ぶであろう紐の部分は無残に引き裂かれている。
小狐丸はただ、黙ってその髪飾りを見つめていた。手に取り、愛しい相手の頬を撫でる手つきでそっと髪飾りに触れる。
いまはただ、誰のことも考えず、いなくなってしまった彼の刀の面影を追いたかった。日常にいると忘れてしまいそうになるが、忘却してしまうことは決してできない。小狐丸の心に刻まれた、あの無邪気な月をなかったことにするなど不可能だ。
たとえそれがどれだけ辛いことであろうとも。
たとえそれがどれだけ愚かしいことであろうとも。
小狐丸は己の伴侶であった三日月宗近を忘れられない。
「ににさまー」
場に違う、呑気な声がした。小狐丸は顔を上げる。襖にしがみつきながら、刀剣男士未満の小さな人工生命がいた。
少年の名前は宵という。小狐丸と三日月宗近が互いの鋼を掛けあわせて育んだ子だ。どうしてだか、小狐丸に懐いている。そのことがいつも不思議で仕方ない。
宵はてこてこと近づいてくると、座ったままの小狐丸の背中を叩く。
「みつただが、おやつできたって。行こう」
相も変わらず無表情のまま、それでも誘ってくれる。
小狐丸は正直なところ一人でいたかったのだが、宵の誘いを無下に断ることもできず、溜息を吐いて立ち上がる。
その、一瞬。
宵は小狐丸に隠されていた髪飾りに気付き、小さな手を伸ばした。何も考えていない。純粋に気になったのだろう。
だが。
「宵!」
小狐丸は一度も出したことのない強い叱責の声を上げた。宵の手が止まる。ゆっくりと小狐丸を見上げたかと思うと、その顔が歪む。
ぼろぼろと宵の目の両端から透明な滴が落ちていく。畳に落ちて座れていく。
小狐丸は宵が泣くのに、慌てるばかりだ。手を伸ばそうとするが、泣かせた自分にその資格があるのかと躊躇い、結局止まる。
宵は泣く。大声ではない。ひくっとしゃっくり上げるようにして泣く様が、一層いじらしい。何をしてしまったのかはわからない。だが、小狐丸を傷つけることをしてしまったのは理解し、傷ついている。
小狐丸もまた宵を傷つけてしまったことによる苦さが口の中に広がっていくのを、黙って味わっていた。
互いに動くことのできない、沈黙が続く。
「おやおや。どうしたんだい?」
軽妙な声と共に姿を見せたのは、福島光忠だった。
小狐丸が言い淀んでいると、福島は宵の頭を撫でる。
「悪いことをして、叱られたのかい?」
「いえ……それはむしろ、私が」
「俺は宵くんに聞いてるの、あんたじゃないよ」
当然のことをぴしりと言われ、小狐丸は黙る。宵は小狐丸と福島の間で視線を漂わせ、最後には首を斜めに傾げた。
「悪いことをしたって感じでもなさそうだね。さて。宵くん。甘い物でも食べて、元気を出そうか。今日のおやつは光忠の新作だよ」
宵は小狐丸をじっと見上げる。その瞳の中に宿る不安に、頷き返した。そうして、できるだけ優しい声で言う。
「行きなさい」
今日は貴方の手を引けないから。
宵はこくんとうなずき、狩衣の袖で涙を拭うと、たたたっと駆けだしていった。
その背中を小狐丸は黙って見送る。久しぶりに寂しさか、それとも罪悪の意識で胸が疼いた。
「で、何があったんだい?」
「私が宵を叱ってしまいました。大切な物に手を伸ばされたので」
「そんなに大切なら、しまっておかないと」
「わかっています。わかっていますが」
それでも、永遠に目に付かないところに置くわけにもいかなかった。あの髪飾りは、小狐丸の恋と罪の証だ。忘れないためにも、見つめなくてはならないときがある。
小狐丸の無言に対して、福島は肩を叩くに留めた。「わかったよ」ということだろうが、それでも宵を傷つけてしまったという事実が胸に刺さる。
その、宵が戻ってきた。目の端を赤くしたまま、襖から顔を半分だけ覗かせている。
「ににさま。ごめんなさい」
短い謝罪の言葉を残し、また宵は去っていってしまった。
小狐丸は息を吐く。そうして、文机の置いたままにしていた髪飾りを真珠色に塗られた箱の中にしまった。行李の奥に、そっと片付ける。
彼の存在を忘れることなど、それこそ自身が折れることでもない限り、ありえないことではあるのだが。それで大切なものを見失ったら、きっとあの月は笑い、そしてその後に怒るのだろう。そういう刀だった。だから、自分は恋をした。
だけれど、大切なものはいまもまた別の場所にある。それを見失ってはならない。
「まずは、私も宵に謝らないといけませんね」
「そうそう。感謝と謝罪は速さが勝負だよ」
「その通りですね。ありがとうございます」
廊下で待っている福島に礼を言い、小狐丸は部屋を出て歩き出す。
宵はまだ、自分のことを待っていてくれるだろうか。もしそうではなかったら、謝ろう。何度だって、謝ろう。
貴方も私の大切な存在だと示すために。
90.遺物
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