かつて、自分たちは刀剣男士というものであった。
本丸という箱庭にも似た環境で日々を過ごし、刀を手にして敵を屠ることを続けていた。
だが、争いもいずれ終わる。全ての歴史修正主義者を処断し、時間遡行軍を殲滅した後は、やるべきことは残っていなかった。
刀剣男士という軛から解放された三日月宗近は、二千二百五年後の世界で人として暮らしている。
その三日月は千年以上もの間、人の世を見続けていた。だが、二千二百五年以降という時代は大きく変わったようでいて、繰り返される営みは千年前とさほど変わりが無い。人は起きて、食らい、働き、休み、眠り、また目覚める。技術がいくら進歩しようとも、人は絡繰りに全てを委託することなどしなかった。
また、できなかったのだ。
そうして三日月は自身の暮らす街の端にある、茶屋に向かって歩いている。刀剣男士として初めて人の身を得た頃から、三日月は甘味も茶も好んでいた。しかし、今回の目的は舌を満たすことではない。
茶屋に向かう途中で周囲を見渡すが、この時代の町並みはなんと例えたら良いのだろうか。三日月はいつも言葉に迷う。かつての緑と共に築かれた穏やかな風景でもなく。四角い箱がいくつも並ぶ無機質な場所でもなく。かといって、かつて未来というもので想像された湾曲した物体がそびえたち、空を馬が飛ぶといったものでもない。
どちらかといえば、懐古したのだろう。地面は舗装されていないため、昨日の雨が未だ残っており、一歩踏み出す度に音が立つ。周囲の建物は砕かれたのか、建物を支える柱があらわになっていた。さらに植物が半壊した建築物に絡みついている。
それでも、晴れた空は燦々とした光を降り注いでいた。
三日月は上げていた顔を前に戻す。白い壁に黒い屋根の茶屋が見えた。入口には黒板が立てかけてある。目的の場所だった。
からんらんらんと音を立てながら、開けた扉が鳴る。
「いらっしゃいませ」
穏やかな調子で歓迎するのは、見飽きたいほどに見知った相手だった。
小狐丸。
刀剣男士であった頃は白を中心とした出陣衣装に身を包んでいたが、いまは白い上に黒の上着等を身につけている。この茶屋の制服だ。
三日月は小さく頷く。小狐丸はにこりと微笑んで、三日月を左の壁と向き合う席に案内した。三日月はその席に腰を下ろす。
店を見渡せば、机が三つに壁と向かい合う一人用の席が五つといったことだ。広くはない。だけれど、客はそこそこ入っている。黄昏時だからだろうか。
店の奥にある厨房からは火を扱う、じゅうじゅうといった音が絶えず聞こえてきた。小狐丸も奥に戻り、他の客が注文したであろう青い炭酸水を手にしていた。机の客の前に置く。
その際に小狐丸が浮かべた笑顔といったら、明らかに愛想だとわかるというのに、乙女であれば心ときめかせずにはいられないものだった。
相変わらずのたらしめ、と三日月は内心で毒づく。
その感情を読み取ったわけでもないだろう。小狐丸が三日月に注文を訊きに来た。
三日月は一枚だけのお品書きを見る。
「珈琲」
「砂糖は当然お付けしますよね」
返事は下からにらみつけることだ。小狐丸は手にしていた伝票に注文を書き込んで、去っていく。
蝶の形に結ばれた紐に飾られた背中と、真っ直ぐに歩く長い足につい目がいってしまう。
そうして口から洩れるのは憂いのある吐息だ。
小狐丸には刀剣男士としての記憶がないのだから。
どうして、三日月にはかつての戦乱の記憶が残されたというのに、小狐丸は失ってしまったのか。理由は不明だ。実在刀と幻刀という違いがあるからかもしれない。予想はいくつも立てたが、確証を得られたものは一つもない。
それでも、三日月は小狐丸を捜した。捜して、捜してようやく見付けた小狐丸は三日月のことを欠片も覚えてなどいなかった。ようやく再開した時の、花が咲いた笑顔は思い出すだけで腹が立つ。
だけれど、小狐丸はまた三日月宗近に恋をしてくれた。それだけで、全てを許そうと決めた。随分と甘いことだ。だが、仕方ない。
小狐丸は三日月宗近のものだから。
たとえ輪廻を幾度繰り返すことになろうとも、放さない。逃しなどしない。いなくなったらまた捜して見つけ出す。
千年前から繰り返しているのだから、もう慣れた。
三日月は給仕をする小狐丸を見つめる。女性客に今日の甘味は何かと話しかけられて、愛想良く答えていた。仕事だけではない。誠意がある。
同時に、いくら他の人間が媚びを売ろうとも、小狐丸がなびくことは決してない。
三日月の唇が静かに吊り上がる。
「あれは、俺のものだから」
胸を占めるのは暗い優越と疼く妬心だ。
三日月の仄かな闇に気付かないまま、砂糖壺と共に小狐丸は珈琲を運んでくる。
「お待たせいたしました」
「ああ」
丁寧な動作で給仕をする小狐丸を三日月は見つめた。
茶屋の制服というものも、悪くはない。
93.制服
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