秋の夜になろうとも翠の蓮が静かに水面に灯る本丸であるために、その本丸は翠蓮の本丸と呼ばれるようになった。
草木も眠り、刀も眠る深更の夜のこと。
小狐丸は隣の気配が失せてからしばらくして、ぱちりと目を覚ました。まだ横たわったまま視線を横にずらすと右隣の布団はもぬけの殻だった。起き上がり、敷き布団に触れるとまだ温かい。抜け出てからそれほど時間は経っていないようだった。
小狐丸も夜着のまま起き上がる。酷暑は過ぎた頃とはいえ、まだ上掛けを必要とするほど寒くもなかった。
足音を立てずに小狐丸は歩く。しっとりと床の木材が足にまとわりついた。
そうして、小狐丸は月を見付けた。
雲に姿を隠しながら朧に光る痩せた月を見上げる、伴侶にして妹の三日月宗近が縁側に座っていた。
小狐丸は後ろから三日月を抱き込む。上がりそうになった悲鳴は手の平で奪った。三日月は視線を滑らせて、自身を覆っている存在が小狐丸だと気付くと、体から力を抜いた。
まだ、三日月の湿った吐息を手の平の皮膚で感じながら、小狐丸は小さな声でささやきかける。
「心配しましたよ」
三日月はすっと目を逸らして、瞼を伏せた。長い睫毛が落ちて陰を作る。小狐丸の野生の瞳はその様子を見逃さなかった。
普段はぽやぽやとしていて素直な三日月が黙ったままうなだれるのは珍しい。小狐丸がその様子を観察していると、かりりと指に歯を立てられた。そろそろ口を塞ぐ手から開放してもらいたいといったところだろう。小狐丸は大人しく三日月の訴えに従った。
ぷは、と息を吸う三日月の様子は可愛らしい。だがその後にはじとりと小狐丸を睨んできた。
「いきなり襲うな。びっくりしたぞ」
「私も貴方がいなくて心の臓が止まるかと思いました」
「うそつき」
三日月は顔を背ける。そんな言葉を信用したりはしないぞ、と意地を張っているようだった。小狐丸としては心外だ。三日月を抱きしめる腕の力を強くしながら言う。
「嘘なわけないでしょう。私がどれほど貴方を愛しているのかを知らないとは言わせませんよ」
そのまま顔を近づけるのだが、三日月はまだ振り向かない。呆れた小狐丸が三日月のうなじをなぞると、甘い声と共にようやく視線がかちあった。
ただし、その目はまだ恨みがましいものだったが。
「一体どうしたんですか」
「眠れないだけだ」
「でしたら、強引にでも穏やかな眠りに落としてさしあげますよ?」
小狐丸が三日月の背筋を人差し指でなぞりながら言うと、激しく首を横に振られた。まろい頬が夜闇の中でさえわかるほど赤い。
ああ、愛おしい。
小狐丸は嘘偽り無く思う。
最初は刀剣男士だというのに女性の体をもって顕現した三日月に大層驚かされたものだが、よく考えなくとも自身は『三日月宗近』と惹かれあい、契りあい、そうして別たれたのだ。肉体を得てからの性別がどちらになろうとも、それは些末なことだ。
多様な歴史が織りなされる中で、もう一度、この小狐丸のものであった三日月宗近と巡り逢えたことが奇跡だ。だから、いま腕の中に閉じ込めている三日月が、あの痕を残している三日月であったらそれでよい。
小狐丸は三日月の髪に頬をすり寄せる。獣が自身の匂いをつけるように、三日月に自身の存在をまとわせた。
三日月は黙っていたが、しばらくすると口を開く。
「眠れなかったんだ」
「それはどうして」
「もし、明日起きたらこの戦が終わっていて。あにさまとまた別れることになったらと思うと、怖くて眠れなくてな」
それはたまに聞かされる、三日月の真情の吐露だった。
小狐丸が返す言葉はいつだって同じだ。
『案ずるな。たとえ、別たれても魂は常に共にある」
「それではいやだ」
らしい我が侭を三日月は口にした。ようやく、小狐丸の夜着にすがりつき正面から見つめながら、三日月は言う。
「もう、触れ合える喜びを知ってしまった。それなのに、お主はまた俺を置いて、独り寝を味わえというのか」
「そんな無情なことは申しません。それに、もしこの戦いが終わる時が来るのならば。私は貴方を今度こそ連れていきます。強奪だと誹られてもかまいません。貴方と、私が違うところにあるということがそもそもおかしいのですから」
傲慢だとなじられようとも、小狐丸だってこの千年の間、手を伸ばしてもかすめることすらできなかった距離に、納得などいってなかった。
小狐丸と三日月は人が物語を始める前から想いを寄り添わせ、結ばれていた。それなのに、小狐丸を現世から失わせ、小鍛治の存在へと昇華させたのは、人の蛮行だ。本来ならば、帝が乞うた刀として三日月の隣に並べられていてもおかしくなどない。
ないというのに、現身がないというだけで、小狐丸はまほろばの刀となってしまった。
人の歴史を守るために励起されたこの身だが、自身が失われた歴史を、三日月が一人静かに涙し続けた歴史を守る意味というものを小狐丸はたまに考える。そうして、虚しくなる。
「三日月」
「ん」
「貴方は、私が手を引いたら、現から離れる覚悟はありますか」
「………」
三日月は俯いたまま答えない。
小狐丸は知っている。
この刀は優しいから、自身の願いだけでは動かない。だというのに、とても頑固だから、納得のいかないことには徹底的に逆らう。
たとえ無謀であろうとも。無為に終わろうとも。
この現世を慈しみ続けているのだ。
「全く、妬けますね」
「な、なにを。俺が慕っておるのは、あにさまだけだぞ?」
小狐丸は苦く笑う。
「知っています。ですが、それでも私だけを選んでくれないのですから」
言って、三日月の額に自身の額を合わせる。
「私にはもう、貴方だけですのに」
間近にある月の瞳が潤んだ。その揺らぎが、喜びなのか悲しみなのかはわからない。
小狐丸はただ三日月に寄り添い続ける。
眠らぬならば、世が明けるまで。貴方の傍で恋を紡ごう。
88.眠れない
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