本丸によっては、審神者の意向で変わった象徴を持つところがある。金木犀であったり、青い桜になったり、もしくは赤い葡萄が実るところもある。この本丸はというと、紫ではなく乙女の頬と同じ紅の菫が咲くものだから、紅菫の本丸と呼ばれるようになった。そのことについては普段は引っ込み思案の主も誇らしく思っている。
その紅菫の本丸も新しい春を迎えた。雪の景趣は出番を終えて来年までしまわれることとなり、いまは淡い桜が一面に広がっている。初めて春を味わう道誉一文字などは「見事だ」と賞賛の一声を上げていた。
そうして、春と花と美味しい料理に酒とくれば、花見になる。刀剣男士という戦う使命を持った存在であろうとも、楽しいことを遠ざけるほど禁欲的にはなれない。賛成多数の意見を経て、本丸の東にある林で花見をすることになった。
そうなると、忙しいのは近侍を務める乱藤四郎だ。普段の主の補佐に加えて花見の采配まで行わなくてはならない。燭台切光忠を初めとする長船派の刀剣男士たちに料理の手配を依頼して、歌仙兼定には茶を初めとする飲料の準備に関する指示を出す。体格の良い槍や大太刀には花見の場所の設営を図面と共に説明しなくてはならない。
主を補佐する乱をさらに援護する役割を、小狐丸はよく担う。小狐丸は乱に並々ならぬ恩があるのと、純粋に好ましさを抱いているが故の善意による行動なのだが、それを微笑ましく受け取らない刀が一振りあった。
「と、いうわけで。今年は乱のお手伝いができそうにありません……」
「わかった。三日月さんから目を離さないでね」
視線を合わせながら、極の出陣姿の乱は小狐丸に念を押すと、すぐに廊下から立ち去っていった。ばたばたと走らずに背筋を伸ばして音を立てずに歩く姿は、流石短刀という感想しか抱けない。
乱と同じく極の出陣衣装でいる小狐丸はいま立ち去った相手のことを気にしつつ、自室へと戻っていった。花見に向けて準備を割り振られる刀剣男士と、そうではない刀剣男士に分けられている。広い本丸とはいえ、百振りを超える刀がひしめき合ったら行動に支障が出てしまう。
申し訳なさを胸に沈み込ませながら、小狐丸は自室の襖を滑らせた。室内には、のんびりと優雅に茶をたしなんでいる、こちらも極の衣装をまとった三日月宗近がいた。
「おかえり」
小狐丸に気が付いた素振りもないまま、淡々と呼びかけてくる。小狐丸は「はあ」と返事にもならないいらえを返した。
紅菫の本丸の三日月宗近は政府から下賜された刀剣男士であるために、他の短刀や拾った刀と雰囲気が異なる。そもそも三日月宗近という刀自体が一線を画していると言われたら、頷くしかないのだが。
互いに出陣後の仰々しいとも例えられる姿のまま、向かい合う。
小狐丸は手を膝の上に置いて正座をし、三日月は茶をゆっくりとすすっている。
「して、皆は何を慌ただしくしているんだ?」
「……乱が聞いたらにっこりと怒りますよ」
「それを聞いた俺はにっこりと怒らないとでも?」
三日月の笑みに威圧が増す。小狐丸は両手を挙げて降参の意を示した。
そうして、二日後の花見についての説明をする。ほうほうと頷く三日月に、小狐丸は今回の自分の仕事は三日月から目を離さないことになってしまったことも付け足した。
「そうか、この二日間は、小狐丸殿がずっと一緒か」
「どうして照れるのですか」
「いやな。二人きりで過ごす時間は意外となかっただろう。それがようやく叶って、嬉しいなあと」
素直にはにかむ三日月であったが、小狐丸は正直に言ってしまった。
「貴方はぬしさまのお気に入りですからね」
「訪れた由来ゆえ」
言葉にしてから、小狐丸は早々に失言を恥じる。三日月も主に媚びや愛嬌を見せているわけではないのに畏敬の念で見られていることに対して困っている可能性があった。
紅菫の三日月宗近は本丸の仲間であるが、距離も置かれている。三日月自身が作ってもいた。
それなのに、目の前にいる三日月は小狐丸が特別な存在だという。だから、小狐丸も困ってしまう。
名前のつけられない関係のまま、二年近くの時が経ってしまった。
襖が、風で揺れる。びゅおう、と春一番が吹き荒れる。
おそらく盛りに近づいている花を蹴散らし、空に舞い上がらせ、最後は地面に降り注がせる。そういった風が吹いた。
小狐丸は花見の前に花が散らされないことを願ってしまう。もし、寂しい木々になってしまったら、奮闘している乱たちが憐れだ。
「風は、何をしたいのでしょうね」
小狐丸は思わず呟いていた。
どこからか訪れて、どこへともなく連れていってしまう。明確な意思は感じられないのに翻弄だけは芸達者なのが、風だ。
それはまるで、三日月にも似ていると小狐丸は考えた。
大抵の刀には見通せない遠くを眺めながら、その場所へ追い立てるように、誘導するように、気ままに動いていく。三日月から目を離せない一部の刀剣男士たちは、彼の身勝手さに怒りながらもついて行かざるをえないのだ。
小狐丸も、その一振りだからわかる。
先ほどの小狐丸の問いの真意を察していないのか、それともとぼけているのかわからないまま、三日月は薄く笑んでいた。いつもの笑みだ。よくわからない、笑みだ。
小狐丸は三日月の考えていることなど、突き詰めないことにした。己にだって秘密はあるのだから、相手のことばかり執心しなくとも良いだろう。
それでも。
小狐丸の視線は三日月に向かってしまうのだった。
71.風の行方
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