72.故郷

 どこに帰るのかというよりも、どこに帰りたいのかを見つけることが人生なのではないだろうか。
 たとえ生まれ育った場所があったとしても、災害などによって灰燼に帰してしまったら、もう二度とその場所には帰ることはできない。その土地で生きているたくましい人ならば、再建なども考えることもあるのだろう。だが、かつて自身が踏みしめた道、並ぶ家、そういったものは全て失われてしまっている。
 故郷とは場所を指すのかそれとも概念によるものなのか、どちらなのだろう。
 人類最後のマスターである藤丸立香の故郷は未だ遠いままだ。
 それでも、郷愁に浸る間もなくイベントは次々と襲来してくる。いまはバレンタインデーの真っ只中で、今年の主役である小野小町に関する一騒ぎも落ち着いた。
 自由になった藤丸立香を尋ねてくるサーヴァントは後を絶たない。清姫はすでにカルデアのサーヴァントとしては古参の域に入るというのに、等身大のチョコレートを毎年贈ってくるので保存に困る。
 立香はマイルームからそっと抜け出して、ストーム・ボーダーの廊下に出た。以前の破壊の痕跡は修復されることなく、青い空が広がっている。
 立香は誰からもらったわけでもないタブレットのチョコレートを一枚取り出して、ぽりぽりかじり始めた。
 カカオ七十パーセントの苦みがたまらない。
「おや? 立香」
 不意に声をかけてきたのは、男性の岸波白野だった。女性の岸波白野は、先ほど赤い弓兵にチョコレートをもらいに行っていたのを見かけている。
 白野は立香の隣に立つと、顔を覗いてくる。
「こんなところで、どうしてもらったものでもないチョコレートを食べているのかな?」
「気分転換です」
「君のために死力を尽くして贈り物を用意しているサーヴァントが列をなしているのに。罪なマスターだなあ」
 陽気ではないけれど、暗闇に灯るランタンの笑みを向けられる。その笑顔の密やかな力強さは、確かに「世界を何度か救ったことのある」マスターにしか持てないものだ。立香とは種類が違う。比較することもできない。
 立香はタブレットを歯で割り、食べ終えてから言う。
「先輩になら言えることですが」
「うん」
「オレ、カルデアに来る前はこんなにチョコレートをもらったことがないんです」
 白野は首をかしげ、それからわかったように頷いた。
「そっか」
「はい」
 岸波白野はマスターの記憶を持つが、カルデアではサーヴァントとして顕界した。つまり、サーヴァントでありながら、立香のマスターとしての重責を理解してくれる数少ない存在だと言える。
 さらに、白野は自身のことを立香の先輩だと言ってくれるので、付き合いは短くとも、情けない弱音をこぼすことができた。
「オレはいつか、帰らなくちゃいけない。そのために、人理を正しい在り方に戻して、カルデアにたどり着かないといけないんです」
 残された、あと一つのオーディール・コール。そしてオルガマリーの遺骸である二つのピースとの戦いなど、するべきことはまだまだある。
 だけれど、旅は確実に終わりに近づいていた。そのことを直視すると、立香は形容しがたい不安に襲われる。
 いままで当たり前のようにあったものが、手をすり抜けて零れ落ちていく。二度と会えない場所に皆が帰っていく。それは、ゲーティアを倒した後に経験したはずだというのに、また味わうのかと思うとひどく苦い。
 カルデアに来る前の藤丸立香と、マスターになってからの藤丸立香は明確に変わってしまっている。それなのに、いまあるものを失ってから、平然と日常に戻れるのだろうか。
 それがわからないから、怖い。
「立香」
 白野に呼ばれる。俯いていた顔を上げる。
「だめだよ」
 きつく、叱られた。短い言葉ではあったが、込められた思いは恒星のように熱く輝いている。
「君は、いまが幸せなんだ。だけどここは、君の日常じゃない。どれだけ長い時間を過ごし、心地よい関係を築けても、サーヴァントとは永遠に一緒になんていられないんだ。君は、世界を取り戻すためにマスターになったんだろう? それなのに、足を止めそうだから、怖いんだろう?」
 白野は的確に立香の悩みを撃ち抜いてくる。それは、かつて彼もマスターとして同様のことを経験したためだろうか。
 視線を揺るがせないまま、白野は言う。どん、と強く背中を押してくる。
「がんばれ、藤丸立香。目的と手段を取り違えるな。君には帰ることのできる場所がある。そこに、俺や彼ら、彼女らがいなくても。君の中には確かにいたという証が残る。だから」
 故郷に帰るんだ。
 そう、二度と戻る場所のない先輩は言ってくれた。
 立香は頷く。
「はい」
 カルデアという場所は藤丸立香にとって、決して欠かせない場所になっている。だけれど、故郷ではない。ここは、故郷ではないんだ。そして、旅を終えてから帰るべき場所は真白ではない大地に、きっとあるから。
 白野は言う。
「さ、行こう。こんなところで油を売っていないで。まだ、もう一人の俺からのチョコレートももらってないんだろう?」
「よくわかっていますね」
 立香も壁から背中を剥がして、歩き出す。
 忘れないでいよう。これから与えられる、愛情と労り、憐憫や同情も全て、受け止めよう。それらはきっと、この手の中には残らない。
 だけれど、忘れない。
 共に戦った仲間達のことを、故郷に帰っても思い出すために、思い出を刻んでいこう。




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    こぎみかとリクサラを主に、世界を大切にしつつ愛し合うカップリングを推しています。

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