初夏を迎えたというのに季節外れの金木犀が薄黄色の花弁を揺らす本丸がある。その本丸はいつからか、金木犀の本丸と呼ばれるようになった。一年もの間、金木犀が本丸のいたるところで絶えず揺れることが理由であるらしい。
優美な本丸であるのだが、夜半を過ぎたいまは真黒な闇が本丸全体を包み込んでいた。
金木犀の本丸の主戦力である、小狐丸の部屋も同様だ。蝋燭による明かりはすでに消されており、一点の白のない暗闇が部屋を塗り潰している。
だというのに、小狐丸の瞼越しに光が届いた。昼の火輪が注ぐ焼き尽くされるような光線ではない。路頭に迷ってしまった存在に差し伸べられる、穏やかだが毅然とした光だった。
小狐丸は閉ざしていた目を開く。そうして、首を左に傾けた。
「ああ、すまん。起こしてしまったか」
覚醒の気配を感じ取ったのか、小狐丸と同室でありまた恋仲である三日月宗近は短く謝罪した。均整の取れている三日月の輪郭は開かれた窓から差し込む月の白光に照らされて、頬の産毛がわずかながらに確かめられる。
小狐丸は目前の光景に言葉を紡げないまま、体を起こす。立ち上がらないまま、這うように移動すると窓の桟に寄りかかる三日月の腹に腕を回した。うりうりと頬を夜着にこすりつける。
「なんだ」
呆れが透けて見える声を上げられたが、小狐丸は三日月から離れられない。薄い着流し越しに触れている涼やかな熱はいまの小狐丸にとって失えないものであった。
豪奢というほど華美ではなく、粋と例えられるほど男ぶりがあるわけではない。三日月宗近の美しさというものは言葉にすることが難しい。
例えるのなら、夏に舞い上がる水のきらめきといえばいいのか。それとも、冬の静寂に満ちた雪原の中に一粒だけ眠る南天の色鮮やかさか。決して永遠には続かない、だけれども胸に焼き付いて忘れることのできない美しさを三日月宗近は宿している。
三日月は黙ったまま、離れない小狐丸の頭を気安く叩く。小狐丸は触れられていることに安堵を覚えながら、ようやく使い古された言葉を口にできた。
「貴方が、月にさらわれてしまうのではないかと……」
光に溶けていき、粒子と化して天に昇ってしまうのではないかと。
小狐丸がそういった、馬鹿げた不安を抱いてしまうほどに、三日月は美しい。
だが、外見の美しさだけに惹かれて小狐丸は三日月に恋をしたわけではない。決して、なかった。
三日月の凛と伸ばされた背筋と深遠を見通す瞳の神秘さに魅入られた。小狐丸には触れることの許されない孤独に寂しさを抱いた。だというのに、稀にではあるが、小狐丸だけに許された慈愛のこめられた微笑を見てしまう度に、強く願ってしまう。
この方の表情が曇る瞬間は一瞬たりとも見たくない。
傍にずっといたい。
三日月宗近を、自分が守り抱きしめたいと。
まだ夢と現をさまよいながらも、小狐丸は三日月を抱き留めていたのだが、不意に三日月の警戒が緩んだ。
三日月は一瞬にして、小狐丸を自身の布団の上に寝転がすとその上に両腕を押さえながら覆い被さった。
「何を言うかと思えば。俺も、月だぞ」
金木犀の本丸の三日月は鷹揚に笑うことが少なく、しかつめらしい顔をしていることが多い。だが、いまは口元を緩ませて真珠の歯を覗かせていた。
とくん。
小狐丸の心臓が強く、脈を打った。
うつくしい。
薄闇に染め上げられて、頬をわずかに隠す絹糸の髪も。色素の薄い透明な肌も。通った鼻梁に仄かに朱い唇も、すべてが小狐丸の瞳に焼き付くほどにうつくしい。
そして、自身を見下ろす月の溶けた宵の瞳が、この世のいかなる絢爛豪華よりもうつくしい。
三日月の指先は小狐丸の脈を止めるように、喉の辺りの厚みのない皮膚をなぞる。その感覚だけで、小狐丸は震えを覚える。恐怖ではない。単純な怖さだったら楽だった。抱くのは、もっと深く熱い劣情だ。
小狐丸は体に無理をいわせて、腹筋を使いながら強引に上半身だけを起こし、三日月に口付ける。互いに瞳を閉じる余裕などないまま、唇が合わさった。触れた瞬間、三日月の瞳は少しだけ見開かれる。しかし、閉ざされることはなかった。小狐丸を愛おしむように眺めたまま、より唇を押し当てられる。
角度を変えて、何度も、何度も口付けた。
普段の恥ずかしがりで矜持の高い三日月ならば突き飛ばしてきてもおかしくはないというのに、一度も三日月からの拒絶はなかった。むしろ、もっとと言わんばかりに三日月から触れてくる。
小狐丸は「これは夢かもしれない」と考えた。それでも十分に幸せだった。
三度ほど口付けを繰り返した後に三日月は小狐丸から離れた。窓に向き直ると、からからからと滑らして、閉ざしていく。さらに布で月の光を完全に遮断した。
小狐丸は黙ってその光景を眺めている。三日月は視線に気付くと、小狐丸の目を手で覆った。
「月に、見られてしまうからな」
薄紅に彩られた声を聞いて、小狐丸の体にまた震えが走る。
少しずつ三日月の手がずらされていくが、視界はすでに目覚める前の暗闇に戻っていた。だけれど、光のない視界にあってさえ、三日月の美しさは損なわれない。
小狐丸の視界には確かに、月の光が咲いていた。
76.月の光
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