如月の風が頬を撫でる度に、首に巻いているマフラーをたぐり寄せてしまう。真に冷える季節は如月だと、八島知美は考えている。東宮の受験生が交通機関の麻痺で苦しむのも如月が多い。卯月は案外、雪が降ることは少ないのだ。
あらゆる願ひが叶えられるという、狼欒大社にて、知美は待っていた。吐く息は白く、境内には風や冷気からの逃げ場はない。呼び人が来ることが待ち遠しかった。
「Tomomin、待たせてごめんね」
社務所と思われる場所から駆け寄ってきたのは、あるミュージシャンの推し仲間であり、いまは複雑な関係となっているChiruruだ。互いの呼び名はローマ字であるが、二人とも秋津の国の人間である。
知美は自分よりも随分と背の低いChiruruこと石長姫子に微笑みかける。その度に、何度も見て、慣れているはずだというのに、姫子はいつもかあっと頬を朱に染める。その仕草が面白くて、可愛らしくて、つい笑いかけてしまう自分もなかなか太い神経をしている。
「大丈夫だよ。先に、お参りしていたから」
「Tomominはこの大社の神様のことは、信じているの?」
「完全に頼りにしているわけでないけれど。Chiruruのことはお願いします、っていつでも言っておきたくて」
姫子はこの大社の巫女だという。それも、本人曰く、参詣者の願ひを叶えられるかどうかを左右できるほどの力を与えられたなどという大変な役割を背負っている。
知美ができることは、たまに大社に訪れて姫子に累が及ばないように願うことくらいだけれど、その祈りは神々に通じると信じたかった。
神々の存在という神秘を知美は信じていない。だが、神と呼ばれる存在はいると認知している。同時に、その神にあたる彼や彼女らがいかに理不尽な選択を望むのかも知美は気付いていた。自身を初めとする狼欒大社に関係する者たちが、神々にとってはただの演者に過ぎないとしても、知美たちは憤怒も慟哭も確かに抱いて、生きてきた。
それらをないがしろにする選択を看過できるはずがない。特に、Chiruruが関わっているのだったら。
彼女の悲しむ姿は二度と見たくないから。
知美がつらつらとそういったことを考えている間も、姫子は顔をまた真っ赤にさせていた。すぐに赤くなる。そういうところが、とても可愛い。
「そんなことより! これ! 渡したかったの!」
笑う知美の胸に、姫子はぽすんと何かを押し当てる。
知美は青で可愛らしく包装された袋を開けて、中身を取り出した。さらに透明なフィルムに包まれたチョコレートが出てくる。犬の肉球型だった。
「嬉しくないかもしれないけど。もう、終わっちゃったけど。これは私からの、バレンタインのチョコレート」
「嬉しくないはずないじゃない! ありがとう」
普段よりも三割増しの笑顔で応える知美の輝く顔面に耐えきれなくなったのか、姫子はついに顔を背けた。
知美は改めて、フィルムに収められている肉球型のチョコレートを見る。きちんとおうとつがついていて、手の真ん中に肉球が膨らんでいる。
姫子はお菓子作りを趣味としているが、まさか手作りのチョコレートをもらえるとは思わなかった。
「かわいいね」
「うん! お店で型を見つけてね、がんばってみたの」
私が可愛いと思ったのは、Chiruruだけれどね。
今度は逃げ出されそうな気がしたので、その言葉は胸の内にしまっておいた。
知美はチョコレートを一つ取り出して、口に含む。思っていたよりも苦みのある、だけれど悪くの無いビターな味わいだった。
「どう?」
「おいしいよ。すごく」
その一言で、姫子の表情が和らいで華やいだ。
知美が口を開けるように言うと、小さな口を姫子は丸く開けたので、その口にチョコレートを一つ放り込む。
もむもむと咀嚼しながらも、また姫子の頬が紅に染まった。
「Chiruruはお菓子作りが上手だよね」
「うん。私にはこれくらいしか取り柄がなくて恥ずかしいけど。お菓子が可愛くできあがることが、嬉しくて」
自虐を自然と挟む姫子に少しの切なさを抱く。
そんなことはないよ、と言いたいけれども言う資格が自分にはないこともわかっている。
姫子は一見すると怯えてしまうほどの、無難に表すのならば特徴のある外見をしているけれども、立ち居振る舞いは快活で小動物のように愛らしい。だけれど、人はその可愛らしさよりも表面で判断する。知美だって違うとは言わない。
それでも、私は気付いた。
Chiruruが可愛いと、知っている。
チョコレートを食べるのは終えて、二人で社務所に向かおうとしたところで、階段を上ってくる足音が聞こえた。
「姫ちゃん。いるー?」
「チカちゃん!」
黄泉比良坂もかくやといった階段を息も切らさずに上がってきたのは、こちらも見目麗しい青年だった。姫子はまた駆け出し、途中で青年と手を高く合わせる。
仲が良さそうだ。
姫子にも友人がいたことに安心しながら、同時に少し拍子抜けするような感覚を抱きながら、知美は頭を下げた。
二人は知美のところまで戻ってくると、姫子によって自己紹介をさせられる。
「こちらの方が、Tomo、じゃなくて八島知美さん。で、こちらが私の親友の天野力さんで、チカちゃん」
「初めまして、お噂はかねがね」
にっこりと手を差し出されて、握り返すが、妙に力がこもっていた気がする。知美は微苦笑しか浮かべられない。
「ね、姫ちゃん。お茶をもらってもいい? 喉渇いちゃった」
「わかった。持ってくるね」
知美と力を置いて、姫子は社務所へ走っていく。その背中を見送っていると、くるりと力に目を向けられた。
「あなたが、まだうら若い姫ちゃんに告白するように勧めたという、Tomomin?」
「ああ。そんなこともありましたね」
数年前になるが、姫子が別の異性を意識していたときに告白するように焚き付けたことがある。いま思えばなんて馬鹿なことをしたのだ、と当時の八島知美をはっ倒したい。オンライン上の関係だったとはいえ、もし姫子がいまもその相手と付き合っていたらどうするつもりだったのか。
力はふう、と息を吐く。
「まあ、あなたのおかげで私も姫ちゃんと親友になれたのだからいいけど。……ねえ、約束して」
「はい?」
「姫ちゃんを不用意に傷つける真似はしないって」
その言葉に誠実でいたいのならば、知美は事実を告白するしかなかった。
「すみません。もう、一度、傷つけています」
「はあ!?」
「でも、仲直りしたので! 大丈夫です。もうあんなことはいたしません」
両手を合わせて誓うと、力は肩を落として、今度は先ほどよりも長く息を吐く。そのくたびれた様子だけで、どれほど姫子を大切にしているかが伝わってきた。
「本当に頼むわよ。あの子には、幸せになってもらいたいんだから」
「はい。幸せにしたいです」
知美はきっぱりと言い切る。
一度は悲しませてしまった。傷つけてしまった。
だから、今度こそはこの手であの指に幸福の証を捧げて、幸せにしたい。
「そんなことを、臆面も無く言えるなんて……あなたもイケメンね」
「天野さんほどではないかと」
実際に、力はすらりとした体躯と大きな瞳に高い鼻、荒れのない唇と非の打ち所のない容姿をしている。姫子が親友だと言っていたのだから、それ以上の関係ではないのだろうが、恋愛の相手として意識をしなかったことは一度も無いのだろうか。
少し不安になった。
「あと、もう一つ。あなたは私のこと、変だって思っていなさそうね」
「どこかおかしなところがあるんですか?」
「ううん。わからないでいてくれるなら、いいわ。これからもよろしくね」
今度はぱちりと華麗なウインクを決められて、もう一度、手を差し出される。知美はためらわずに握り返した。
そうして、社務所から三本のペットボトルを手にして戻ってくる姫子を見守る。
「あんまり走らないといいんだけど」
「そうですね。姫子さんは、なかなか、そそっかしいところがありますから」
口にした言葉が予言になったのかはわからないが、姫子は途中でつんのめる。転ぶことは避けられたが、手の中からペットボトルがこぼれ落ちた。
知美は姫子を支えに向かい、力は落ちたペットボトルを拾う。
照れ隠しなのか申し訳ないのか、眉を寄せて「ごめんね」と笑う姫子に「大丈夫だよ」と知美も力も伝える。
大丈夫だよ。
君は、君でいいのだから。
君だから君が好き
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