赤い葡萄が景趣を絶えず彩る本丸であるが故に、その本丸は赤葡萄の本丸と呼ばれるようになった。
いまは初夏の日差しが差し込んできて、その眩さについ目を細めてしまう。赤葡萄の本丸の審神者も例外ではなく、本丸をふらふら歩いていたが、ふと顔を上げると太陽の明るさに目を閉じてしまった。
「いた! 主」
「おや。獅子王」
今日の近侍である極の衣装を身にまとった獅子王が走り寄ってくる。手にはなにがしかの書類を持っていた。
「これ、厨番長からの陳情書。食費を増額してもらいたいんだってさ」
「はいはい。決裁しておくよ」
審神者は書類を受け取ると、また歩き出す。獅子王は何も言わずに審神者の後を着いてきてくれた。
本丸を見渡すと様々な光景が見えてくる。虎徹兄弟は道場で手合わせをしていて、木刀による剣戟を打ち交わしている。来派は兼定派に頼まれたのか、真白くなった洗濯物を干す手伝いを庭でしていた。以前はのらりくらりとしていた明石国行も気怠そうではあるが洗濯物の四隅を伸ばして物干し竿に被せていた。
今日も平和かな。
審神者はそうしたことを考えながら、自室まで戻っていった。主の気まぐれな散歩が終わったことに獅子王も安心したようだ。
先ほどの厨番長である燭台切光忠の申し入れに目を通していると、ふと獅子王が口を開いた。
「前に利いたんだけど、審神者には神職が多いって本当なのか?」
「嘘」
誰に吹き込まれたのかは知らないが、随分と昔の話を持ち出された。
審神者は書類に可決の決裁印を押してから、獅子王に向き直る。
「確かに、まだ審神者の数が少なかった時代には神主や巫女とかがなる傾向が強かったけど。いまは大なり小なり、どの人間にも励起させる力が備わっているというのが政府の公式見解だから。わりと誰でもインスタントに審神者になれるよ」
「へー」
獅子王は感心したようだ。
だが、話はこれでは終わらない。
「誰でもなれるけど、誰でもなっていいってわけじゃない。審神者になる前には深層心理とか暴かれる検査をされるからね。その覚悟ができていないとちときついかな」
歴史修正主義者が審神者になりすまし、刀剣男士を悪用するといった事態を避けるために決められた規定だ。赤葡萄の審神者も、またあの検査を受けたいのかと聞かれたら御免こうむりたい。
自身の心の内を、自覚していないことまで暴露されるというのは中々堪えるものだ。深層検査に耐えられず、審神者になることを諦めた候補者もいるとは聞いたことがある。
時の政府は深層検査によって知り得た個人情報は審神者として認定すると同時に即座に破棄しているという。だが、それも怪しいものだと赤葡萄の審神者は考えていた。
知られたくのないことを握られているということは、時と場合によっては質になり得る。
時の政府というものに対して、今度長義から意見を聞いてみたいものだとも考える。とはいえ、修行に向かうことによって大分丸くなったとはいっても、これまで秘匿するように時の政府から命じられていたことを、あの矜持の高い長義が簡単に明かすとは思えない。
それでも、聞いてみたかった。
「なあ、主。主は審神者になる前は何をしていたんだ?」
「私かあ……まあ、普通のお勤めだよ」
どこの、何をしていたのかを話す気にはなれなかった。汚いことはしていないが、綺麗なこともしていない。
それにしても、今日の獅子王はやたら食いついてくる。元から親しみのある刀剣男士ではあるが、個人的なことに触れられるのは初めてだ。
「だったらさ、主。どうして、主は審神者になったんだ?」
どうして。
「俺たちは主に感謝している。主がいなかったらこの本丸はなかったし、沢山の仲間にも出会うこともなかった。だから、その主が……」
続く言葉はなかった。
だけれど、獅子王の気遣いは伝わってきて、赤葡萄の審神者はふっと綻んだ笑みを浮かべてしまう。
「私が審神者になったわけ、か」
時間遡行軍の侵略を防ぐなどという正義心に駆られたわけでも、刀剣男士をはべらせたいという欲に囚われたわけでもない。
ただ、それだけしかなかった。
あの時の赤葡萄の審神者はそれだけしか、価値のあるものを選べなかった。
それだけだ。
単純すぎてあまりにも格好悪いから、獅子王には隠したくなって、笑ってしまった。
「ごめん。言えないわ」
「そっか」
獅子王も寂しさの残る微笑を浮かべたが、それ以上追求してくることはなかった。
決裁した書類をもう一度、赤葡萄の審神者は手に取る。
こんなに、増えたのだものなあ。
最初は数十振りだけだった刀剣男士もいまは百を越える大所帯となった。想像も付かないほどのひしめき合いだ。
自身が守られ、そして守るべき場所の重圧に潰れそうになることもある。
だけれど、あのまま生きていくよりかは遙かにましだと笑う自分も、確かにここにいた。
73.巫女
-
URLをコピーしました!
-
URLをコピーしました!