79.幻影

 春が終わりを告げても青い桜がさらさらと風に吹かれる本丸であるために、その本丸の名は青桜と付けられた。
 青桜の本丸は連隊戦の準備のためにと練度の低い刀剣男士が鍛えられていた。通常であれば江戸を回り、催物があればそちらの任務へ駆けつける。傷を負ったら手入をされる。慌ただしい審神者の命を姫鶴一文字は相変わらずの一本調子で聞き、周囲に指示を出していた。
 そうした中にあってさえ、青桜の本丸の主力である小狐丸と三日月宗近は相変わらず仲睦まじかった。すでに本丸で再会してから五年の月日は経っているというのに、小狐丸の過保護は増すばかりであった。三日月の小狐丸への偏愛振りも全く衰えていない。
 周囲の刀剣男士は小狐丸と三日月の関係に慣れてしまったために、不必要に声をかけることはしない。生温く見守っている。
 いまだって、初の出陣衣装の小狐丸は出陣も遠征も命じられていないのをいいことに、同じく初の姿の三日月を膝に乗せて首筋に顔を埋めていた。
「くすぐったい」
 決して嫌な響きを持たせずに、三日月は甘えるように言った。そうなると、小狐丸はますます三日月に身を寄せてくる。ぺろりと微かに見える首の白い筋を舐められた三日月は身をすくませた。
 小狐丸へ視線を向けると、上目遣いで黙って機嫌を伺われていることにぞくぞくしてしまう。油断をすると本気ではくりと食べられてしまうが、かといって小狐丸の欲を拒絶したいわけではない。いまが人目につく時間帯でないのなら、いつだって小狐丸の腹の中に収められてしまいたい。
 三日月は身体の向きを小狐丸の正面に変えると、目前にある小狐丸の頬に触れた。ひやりとした感触と、小指で触れた唇の肉厚さにまた痺れが走る。
 小狐丸は何も言わない。三日月の好きにさせていた。
 何か、言わなければと三日月が口を開けようとしたところで、包丁藤四郎の高い声が聞こえてきた。
「こぎつねまるー? あるじさんが、用事だって」
「いま行きます」
 睦言の名残を欠片も見せない淡泊さで小狐丸は立ち上がった。膝から下ろされた三日月は黙ったまま袂を広げて座っている。
 小狐丸がいってしまう。
 そのことにたまらない寂しさを抱いていると、小狐丸は三日月の左瞼に唇を落とした。
「すぐに帰ってきますから」
 何も言えずに三日月はこくりと頷くしかできない。
 遠ざかる小狐丸の背中を見送りながら、三日月はずるずると畳の上に横になった。さらに丸まる。
 いまここに、小狐丸のぬくもりを感じられる何かがあれば、また違っただろうに。
 三日月は目を閉じる。
 思い出すのは幼い頃だ。まだ、三日月は誰にも所有されず、小狐丸は一条天皇の元にあった時のことだ。
 三日月が小狐丸と会うことが叶ったのは、まれに小狐丸が三条小鍛治宗近の手によって手入れをされる時だけだった。
 初めて出会ったときは物陰から覗くことしか叶わなかった三日月を見つけてくれたのも小狐丸で、抱き上げてくれたのも小狐丸だ。
 黒紺で染め上げられた自身とは正反対の白妙の輝きを持つ兄の美しさに言葉をなくしていると、俯くばかりの顔を上げさせられて、鼻の先をつつかれた。
 それ以来、三日月は小狐丸の帰宅を心待ちにしていた。長くのない関わりであったが、三日月は確かに小狐丸に淡い想いを寄せていた。
 だけれども、小狐丸は一条天皇が崩御してから間もなく姿を消した。
 現世ではもう二度と会えない。
 そうなると、いま触れ合えている小狐丸はまるで幻のようだった。三日月はその感覚を味わいたくないために、いつだって与えられた肉の体で小狐丸に触れるのだ。
「小狐丸」
 早く、帰ってこい。




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    こぎみかとリクサラを主に、世界を大切にしつつ愛し合うカップリングを推しています。

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