鳥が上空に向かって翔けていった。その後のことは知らない。
幻想郷の夏の夜に、藤原妹紅は迷いの竹林から人間の里へと降りていった。この暑さのせいか、不死身の身体も粗食に飽きてきている。旧知の仲である上白沢慧音を尋ねて焼鳥でも食べながら酒でも味わいたかった。
舜、舜と妹紅は人目につかないように移動する。そうして、足下もおぼつかない暗闇の中にぼんやりと明かりを灯している邸宅を見つけた。
彼の白沢はこの瞬間も歴史の編纂に熱心になっているとみえた。
妹紅は口元を緩ませながら邸に近づいていき、戸を開く。
そうして目前に広がる光景に目を見開いた。
「これは……ずいぶんな有様だな」
妹紅は歓迎の挨拶の前に慧音の邸へ足を踏み入れる。三和土で靴を脱いでいると、妹紅に気付いた慧音が気にした様子もなく顔を上げた。
「ああ。妹紅、すまないな。みっともないところを見せている」
普段から堅物で油断も隙もない慧音であるため、邸も修羅場に追い込まれている時を除けば大抵整っているのだが、今日は違った。押入から行李をいくつも取り出して、物を出しては片付けている。
夏のうでるような時期に大掃除でもなかろうに、慧音は何をしているのだろう。妹紅は足下に落ちている独楽を拾いながら、とりあえず部屋の隅に移動した。
慧音は時計を見上げると「もうこんな時間か」と呟いた。そうして、いままで散らかしていたのか、整理していたのかわからない物の整理を始めていく。
「何をしていたんだ?」
「生徒達が、あまりにも私の授業が難解だというからな。幻想郷の過去の道具や玩具を出して当時を実践してやろうと考えたわけさ。全く、手を焼かされるよ」
ぼやくように言う慧音だったが、内心は言葉通りではないのだろう。顔に浮かんだ笑みが教師としての誇りを告げている。
妹紅は慧音の授業に参加することなどできない。自分のような存在が、突如、真昼の人間の里に現れたら大騒ぎだ。それでも、慧音の授業が面白みに欠けているという話は迷いの竹林にまで届くほどだったから、慧音の苦労とそれを補ってあまりある教育熱心さに感心してしまう。
慧音は歴史を司る獣人である。そのために、幻想郷を守護するために間違った歴史に侵されないように日々努力しているのだろう。
妹紅は今日の焼鳥は諦めて、慧音の手伝いをすることにした。「手伝うよ」とも言わずに隣に並んで、どこに何をしまうのかだけ尋ねていく。慧音の指示は的確だったが、たまに何を示しているのかわからない物もあった。
必要な言葉以外は交わさない。だけれど、その沈黙が心地よい。
妹紅にとって、慧音とはいて当たり前の存在だ。いずれ失われるなど、想像することはあるが実感は伴ったことはない。
いつだって、いてくれる。
春のうららかな陽気の中にも、夏のじっとりとした暑さの中にも、秋のそうそうとした日差しの中にも、冬のしんしんとした寒気の中にも。
慧音はいてくれた。
だから、妹紅は言葉にはしないが感謝している。迷い子だった自分の前に灯った光の一つが、上白沢慧音という存在なのだから。
あらかた物をしまい終えて、元の綺麗な上白沢の邸に戻った。
「もう、今日は寝るだけか?」
「いや。折角、妹紅が来てくれたんだ。もう少しだけ夜更かしするさ」
にこりと微笑む慧音に妹紅も破顔した。
「それで、何を食べる?」
「焼鳥に決まってるだろ」
「ねぎまも食べろよ」
慧音と妹紅は小さな声で話しながら、深夜まで開いている食堂に向かおうとする。
三和土で靴を履きつつ、妹紅は慧音に言う。
「でも、今日のあれは流石に溜めすぎだろ。もっと、処分しておいた方がいいんじゃないか?」
「わかっている。だが、あれらも幻想郷の歴史の一つだ。簡単には捨てられない。だから、妹紅」
「ん?」
振り向いた先にいる慧音の笑顔には一点の曇りもなかった。
「もし、幻想郷が踏み荒らされるときにすでに私がいなかったら。あれらを全て、燃やしてくれ」
頼む、と軽く口にされた言葉に妹紅は動きを止めた。
慧音は考えている。
いつか、幻想郷がいまの形を保てずに崩落する時を覚悟している。そして、その時に自分が生きていない可能性さえ見据えていた。
だから、託した。
信頼する不老不死の自分に。
幻想郷の美しさが損なわれることのないようにと。
慧音の願いに対して、怒ることもできた。「そんな不吉なことを頼むな」と。
受け容れることもできた。「わかった、私に任せろ」と。
だけれど、妹紅は何も言わずに黙って外へ出る。突然の慧音の屈託のない依頼に頭がぐるぐると落ち着かない。
「妹紅?」
慧音が声をかける。手を伸ばして触れてくる。
重ねられた温もりの淡さに、妹紅は顔を歪めた。
慧音は不老不死ではない。人よりは長寿であっても、決して、終わりのない生を過ごすことはない。
いずれ、藤原妹紅は上白沢慧音を失うのだ。
「慧音」
「ん?」
「その約束は、果たせない」
慧音は一度だけ瞬きをした。そうして、頷き、笑う。
「わかった。すまなかったな」
慧音の笑顔を眩しく思うときが来るなど、もう、何年、何十年ぶりのことだろう。
妹紅は苦く笑った。
ああ、お前を失う時が私はとても怖いだなんて、そんなこと気付かせないでくれよ。
78.儚き過去
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