見頃を迎えた翠の蓮が本丸の池を埋め付くさんとばかりに咲いている。とはいえど、これはいまの時期に限った光景ではなく、本丸が設置されてから長らく慎ましやかに翠の蓮は咲き続けているために、この本丸は翠蓮の本丸と呼ばれるようになった。
さて、初夏を迎えたばかりのいまは飲んべえにとって嬉しい季節だ。冷やした日本酒も美味ければ、熱された混合酒も味わい深い。翠蓮の本丸でも催事がない隙を狙って、夕食後に酒の席を設けられていた。
なかでも孫六兼元と一文字則宗は猪口を片手に見えない火花を散らしあい、その様子を呆れながら眺める加州清光といった図が見られる。加州の隣には常のように大和守安定がいた。こちらの関係もなかなか入り組んでいる。
翠蓮の本丸で、珍しく女体で顕現することになってしまった三日月宗近は無酒の席で、酒を運ぶ面々を初の出陣衣装で眺めていた。
無酒の席というのは酒に弱い、もしくは酒自体を厭う刀剣男士たちの集う一角だ。三日月の隣では火車切がいつも傍らにいる黒いいきものに向かって猫じゃらしを振っていた。さらにその隣には大倶利伽羅が黙って座りながら、火車切の様子を眺めている。無口な二振りではあるが、存外仲は悪くないのだろう。
三日月は自身が兄と慕う刀に視線をやった。相手は、酒の席で吞まなすぎず吞みすぎずといった調子で酒を口に運んでいた。三日月からの視線に気付くと、一瞬だけ柔らかに微笑みかけてくる。その視線の甘さに三日月の頬はいつもならば色づいただろうが、いまはふいと顔を背けてしまった。
三日月は酒の席に加わることはできない。小狐丸が固く禁酒を命じているためだ。顕現してからその禁が解かれたことはないので、三日月はいつも小狐丸が呑み終わるまで待つことになる。
これは不平等なのではないか。
その考えに至った三日月は火車切に詫びてから、無酒の席を抜け出した。そうして、酒の席にいる内番の姿の小狐丸の向かいに腰を落ち着ける。
「どうしました、三日月」
「白々しいことを」
かわいげのない言葉が口から出てくる。だが、小狐丸には伝わっていないようで首をかしげられたままだ。
三日月は強引に小狐丸の前に置かれた猪口を手に取ろうとした。その前に、すっと遠ざけられて三日月の機嫌はますます悪くなる。
「あにさま。俺だって、酒の一つや二つたしなんでみたい」
「だめです」
きっぱりと断られた。三日月が「どうして」と下から睨みつつ食いつくと、小狐丸は三日月の頬にふにと触れた。
「貴方のそんな可愛らしい顔を、他のどの刀にも見せたくないからですよ」
そう言われてしまえば、三日月は逆らえない。唇を尖らせながらも酒の席から離れていった。さらに食事の間からも出ていって、ふらふらと自室に向かって歩いていく。
あにさまはいつだって俺に優しいが、同時に理不尽だ。あにさまから甘やかされるのは当然のことだからよいとしても、密やかな言葉を紡がれたら抵抗できなくなる。それをわかっていて、飴と鞭を使い分けてくるのだから性質が悪い。
はあ、と溜息がこぼれた。
酒などは正直なところ多少興味がある程度だ。ただ、小狐丸が口にするものを己も味わってみたかっただけだというのに。
「三日月」
後ろから声がかけられた。振り向かなくとも誰かはわかっているので早足で進む。しかし、すぐに抱き留められて、身動きが取れなくなる。
「拗ねているのですか」
「べつに」
「珍しいですね。いつもの貴方はかまってもらいたいと愛らしい声で鳴いてくるというのに」
こういったことを臆面なく言ってくるから、やっぱり小狐丸は恥ずかしい。
三日月はまだ振り向かずに、それでも小狐丸のたくましい腕に身を預けてしまう。小狐丸は逃がさないとばかりに腕の力を強くした。胸の鼓動がとくりと早くなる。好いている相手に抱きしめられて、反応しないでいろというのは無理だ。
「あにさまが、酒に気をとられるのはなんだか……気に入らない」
「付き合いが八分ほどですがね。貴方が言うのなら、私も酒をやめましょうか」
「そうしてくれ」
自分の一言によって、小狐丸の行動を制限できるということを知ると、三日月はぞくりとした背徳を得てしまった。
物腰は柔らかだが矜持の高い稲荷の刀が自身の言葉や行動に惑わされる。それも、恋という名の欲得によって。
三日月は小狐丸に向かって振り向く。そうして、首筋に手を添えた。力を込めたら気道を圧迫することのできる位置だ。
「あにさま」
吐息の声でささやきかける。
「なんですか」
間近にある紅い瞳に目を奪われながら、三日月は言った。
「楽しむのなら俺にしろ」
答えは腹の中に落とされた。
80.永遠に
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