56.ひとつ

 雪解けの水が流れ始め、潤いを増していく黄藤が鮮やかであるために、その本丸は黄藤の本丸と呼ばれるようになっていった。
 黄藤の本丸には他の本丸でもごくまれにしか見かけられない、変わった点がある。刀剣男士としての根源を持ちながらも、刀剣男士ではない小さな刀が一振りあることだ。小さなといっても短刀ではない。父に小狐丸、母に三日月宗近の鋼を持つ立派な太刀だ。
 名前を、宵という。
 宵は色は母に、性質は父に似た癖の強い黒髪を揺らしながら、本丸を歩いていた。小腹が好いたので、厨に行き、運がよければ八つ時の菓子を分けてもらおうという算段を組み立てていた。父譲りの赤い瞳をぼんやり、周囲にさまよわせる。
 やがて、厨を見つけると宵はひょこりと顔を覗かせた。夕餉のための準備か、燭台切光忠を中心に長船の刀の面々が手を動かしている。
 宵はてとてとと歩き、燭台切に声をかけた。ここにいるのが歌仙兼定でないことに安心した。始まりの一振りは基本的には優しいのだが、礼儀作法には厳しい。つまみ食いなどもってのほかだ。
「おや? 宵くん。どうしたのかな」
「おやつ、ください」
 技巧を凝らすことなく素直に要求を伝えると、燭台切は苦笑しながら三つのふわふわした黄色い菓子をくれた。宵は父に教えられたとおり、頭をさげる。
「ありがとう」
「食べ過ぎないようにね。君の、お父さんと……お母さんの分もあるから」
「あい」
 母と呼ぶ際にわずかながら口ごもったことも気にせずに、宵は厨をでていった。
「ありがとー」
 そうしてまたてこてこと去っていくと、謙信景光が笑っていた。
「かわいいのだな」
「そうだねえ」
 などという会話が交わされていることなど、宵は気にもしない。
 大きな皿を持って、父と母と暮らしている自室に戻る。文机の上に皿を置くと、一つ目のふかふかした菓子を手に取る。中身がどうなっているのかは、宵にはさっぱり想像できない。とりあえず、かじった。
 目を見開いた。
 歯に当たった瞬間に口の中でふわりと溶けて、中からはとろっとした甘い粘度を持った液体がこぼれてくる。口から溢れさせないようにもふもふと咀嚼した。
「おいしい」
 感想が勝手に口からこぼれる。
 もう一口、二口、三口と食べたところで全て口の中で溶けてしまった。
 初めて食べたとろける甘さに魅了されて、宵は何も考えないままにもう一つの菓子に手を伸ばした。
 やっぱりふわふわしている。
 そうして、半分かじったところで気付いた。
 これはととさまとかかさまの分であった。
 宵は悩む。手の中のかじった痕がはっきり残っている菓子をどうするか。考え、考え、食べた。
 最後の一個には手をつけずにすんだが、さてどうするべきか。父がするように腕を組んで眉を寄せる。
 普段は優しいととさまとかかさまだが、怒る時は怒る。宵だって怒られるのはいやだ。かかさまが哀しい顔をするのがなによりいやだ。
 しかし、嘘を吐いたら二振りとももっと怒る。
 どうしたものだろう。
「宵?」
 聞き覚えのある声に名前を呼ばれた。
「たい」
 開けられた襖から顔を見せているのは、宵とも仲の良い大慶直胤であった。「どしたんー」と気楽に入ってきたので、宵は重々しく応えた。
「わるいことをして、おこられる。どうしよう」
「なにしたの?」
「おかし、ととさまたちのぶんも食べた」
「あたー。それは、清麿くんだったら黙って怒ることー!」
 おかしそうに大慶は笑う。どうやら、大慶と水心子、清麿でも似たようなことがあるようだった。宵は親近感を覚える。
「たいは、どうしたの?」
「怒られたよ。だって、悪いことしちゃったものはしかたなーい!」
「すごい」
 清麿は怒ると怖い。宵も近寄れなくなるほど、怖い。普段は優しいからこそ一層迫力が増す。その怒りを大慶は真正面から受け止められるというのだから、尊敬してしまう。
 きらきらする宵の赤い瞳を大慶は穏やかに受け止めながら、考える。
「でも、三日月さんと小狐丸さんかー。どうやって怒るんだろうねー」
「うーん。すごく、こわくはない。ただ、かなしそうで、きゅっとなる」
 ととさまである小狐丸は「これきりですよ」で終わらせてくれるが、母である三日月はいつも困った顔をして、微笑んで「だめだぞ」と言う。切なさがあるので宵はその点が辛い。怒られる恐怖よりも、自分という存在が間違っているような気分になる。正直に伝えたら、顔を歪められた。母も、また宵に対して申し訳なく思っているのだとわかり、宵はますます「ごめんなさい」といった気持ちになる。
 宵が大慶にそのことを伝えると、大慶は普段の軽快な笑みからしかめつらしい表情に変えて、怒り出した。
「なにそれー! 刀の神秘を馬鹿にしてるの!?」
「え」
 宵には大慶が怒りだした理由もわからない。
「あのね、刀剣男士もすごいけど、刀剣男士から刀剣男士みたいなのを造るのは、もっーとすごいんだよ! だから、宵はすごいの! 悪くない!」
 肩をつかまれて、がっくんがっくん揺さぶられながら言われる内容は相変わらず宵に伝わってこない。わかるのは、大慶は宵の存在を肯定してくれていることだけだ。
 どうしてかはわからないが、胸がぽかぽかと温かくなっていった。
「これ、大慶。宵に何をしている」
 ふと聞こえてきた声に顔を上げれば、三日月宗近がいた。
「かかさま」
「ちょっと、三日月宗近ー! 宵のこと、しっかり愛してあげてよねー!」
「あ、ああ。俺も、宵は大好きだぞ」
 突然、指を突きつけてくる大慶の勢いに気圧されながらも、ためらいなく口にされた母の言葉は優しかった。偽りはなかった。
 純粋に、愛してくれていた。
 宵は小さく、本当に小さく口元に笑みを刻んだ。だけれどそれは一瞬のことで、大慶も三日月も気付かない。
 宵は立ち上がる。
「ねえねえ、かかさま」
「どうしたんだ」
「宵ね、わるいことした。たいへんもうしわけない」
 頭を下げて謝る。三日月は宵の両頬に手を添えて、ゆっくりと持ち上げた。夜と朝の狭間をたゆたう瞳と視線が合う。
「なにをしたんだ?」
「おかし、たくさんたべた」
 そうして、文机の上の皿を指さす。三日月も顔を向けて、ひとつだけの菓子を見て状況を悟ったようだ。
「しかたないな、宵は。ととさまに叱ってもらおう」
「やー」
「しかたない、しかたなーい! 宵もしっかり怒られるー!」
 三日月と宵のやりとりを眺めていた大慶までも楽しそうにはやし立ててくるので、宵は謹直とした表情のまま、精一杯の真面目さで言う。
「たいへん、もうしわけない」
 三日月は宵の頬にもにもにと触れ、形だけの誠意を崩していった。
 そうしなくても、大丈夫だというように。
 宵は三日月に抱きつく。たまに胸がきゅっとするときもあるが、それでも、三日月の腕の中にいられるのはやっぱり幸せなことだ。
 大好きだから。




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