55.手を伸ばせば、すぐ其処に

 たとえば、死で別たれるまで。
 それまではずっと、ずっと一緒にいるだろうと思っていた人たちがいた。
 当然ではないけれど、当たり前ではない存在。大切な家族。
 ああ、だけど。
 人はいつか、家族よりも大切な人を見つけてしまうのだなあって、今更ながら気付いてしまった。
 だから、パシフィカ・カスールは王都ザウエルまで再び、旅をした。

 五体が揃い、視野の欠損や脳の障害もない。
 体を資本とした労働を得意とし、またそれ以外ではまともに働ける自信のないフューレにとって、身体が無事であったことは幸運としか言えない。
 数年前に<廃棄王女>を巡る権力闘争によって、命まですり潰されるところだったが、フューレはそれでも生きていた。
 かろうじて、生きていた。
 身体は無事であろうとも、心には深い空虚を抱えながら。
 ぽっかりと生まれた穴の正体をフューレはとっくのとうに理解していた。<廃棄王女>であった、パシフィカ。フューレの下に身を寄せていた頃は、パメラという少女が永遠に失われてしまったためだ。
 一ヶ月に満たない時しか共にしていないというのに、パメラはフューレにとって失いがたいものとなっていた。だから、彼女が<廃棄王女>ではなくなり、王室に迎えられたと知った時は深い安堵と共に絶望したものだ。
 二度と会うことはない。
 記憶を取り戻したであろう、パメラ、いやパシフィカが自分を思い出すこともない。
 もう、手は届かない。
 フューレは奈落の底に叩きつけられたが、それだけで自棄になって絶望することはなかった。淡々と日々の仕事をこなし、復興に力を貸し、平凡に生活している。
 今日もある荒廃した地区の瓦礫の撤去作業を手伝っていた。
 短い夏は去り、冬であるために暑さに悩まされることはない。それでも、手はかじかむ。痛いが、いまのフューレにとって痛みは心地よいものでもあった。一瞬だがパメラのことを忘れていられる。
 一通り、瓦礫を撤去し終えたところで、配給が始まっていることに気がついた。混雑を避けるために少し離れた場所で空くのを待っていると、呼ばれた。
「おにーさん」
 聞き間違いかと思った。
 聞き間違いであればよいと、願った。
「お仕事ご苦労さま。温かいスープだよ。食べて」
 差し出された木製の椀に入った、薄茶色のスープではなく、椀を手にする人の顔を見下ろす。
「お、まえ! パメ」
 両手がふさがっているためか、口の前に指を立てることはなく、だが静かにするようにと指示される。
 フューレは続く言葉を呑み込んで、少女を見つめた。
 自然に伸ばされた金色の髪。空よりも明るい青の瞳に、闊達な猫のような雰囲気の少女には、見覚えしかなかった。
 こんなところにいるはずはないというのに。
「ついてきて」
 少女、パメラは囁き声で言う。フューレは黙ってその後を追った。
 人のいない、まだ瓦礫の撤去が終わっていない場所でパメラは足を止める。フューレも立ち止まる。
 いま、パメラは自分のことを覚えているのだろうか。初対面にしては距離が近いが、まだ確証はない。緊張して唾液を呑み込むと、パメラが言った。
「フューレ……だよね」
「ああ。俺が、フューレ・タクトだよ」
 その一言が堰だったように。
 パメラは手にしていたスープ入りの椀を投げ出して、フューレに向かって腕を伸ばした。
 抱きしめられる。
「馬鹿! 生きていたなら、なんで教えてくれなかったのよ!」
 頬に涙を伝わせながら、パメラは叫んだ。
 フューレは理不尽な怒りを受け止める。ただ、まだ抱きしめ返すことはできない。
「私に会いたくなかった? 殺されるような目に遭わすような、女になんて、もう関わり合いたくなかったの!?」
「違うに決まってんだろ! 俺だって、ずっとパメラに会いたかった!」
「じゃあ、なんで、いままで何も言わなかったのよ……」
 勢いが削げたパメラは黙って涙する。フューレの服に涙が塩辛く染みこんでいく。
 言わなくてはいけないときが来たようだと、覚悟はできた。
「だって、お前はもう。パシフィカなんだろう。お姫様で、幸せになって。それなのに、会いにいこうと思えるほど、俺は図々しくないんだよ」
「パメラって、呼んでくれないの」
 落ち着いた声で言って、見上げてくるパシフィカの瞳はいまだ潤んでいたが、涙はこぼれていなかった。
 フューレは悩んだ。
 だけれど、自分を見上げる瞳の青さに、名前という記号の差異などどうでもよくなってしまった。
 フューレは手を伸ばす。パメラの頬に手を添える。
「パメラ」
「フューレ」
 それだけで、かつての日々が色鮮やかに浮かんでくる。フューレの人生において、最も色の乗った時間だ。
 失敗し、喧嘩し、だけれど寄り添い、笑いあった。
 かつての幼馴染みとの時間も大切だが、パメラはすっかりフューレの心に居座ってしまったのだ。守りたいと願わせて、無茶をやらかした。
「ねえ、フューレ」
「なんだ」
「私、宿なんてないから、またフューレのところに行くからね。部屋、少しは広くなった?」
 何を言われているのだろう。
 フューレは心底、パメラがいま言ったことを理解できなかった。
「いや! お前、城っていう立派な住居があんだろ!?」
「勝手に抜け出たから知らないわよ! 私は、フューレが生きているって聞いて。会いたくて、ここまで来てあげたんだから。おもてなしくらいしなさいよ!」
「だから、お姫様が来るのに相応しい家なんかじゃねえんだよ」
「私はパメラだもん。捨て猫だもん」
 いままでは泣いて縋るようだったが、今度はきゅっと力を込めて、離さないぞとばかりにパメラはフューレにしがみついてくる。
 温もりが淡くて心地よくて、もしかするといま自分は夢を見ているだけなのかもしれない。それほど、優しくて焦がれていた熱がいま傍にあった。
 手放したくなかった。
 フューレは息を吐く。長く、ながく吐いた。
「……今日の仕事が終わるまで、まだかかるから。いい子にしてろよ」
「はーい。にしても、言い方がいやらしいわね」
「そういうこと言うな、ってそうだ」
 大事なことを確かめ忘れていた。
「まだ、パメラって呼んでいいのか」
 パメラはきょとんとした後に、満面の笑みを見せた。
「うん! 私は、パメラだよ!」
 フューレは僅かながら口元を緩めると、パメラの頭に手をやって、がしがしと金の髪を乱していく。芯はあるが、柔らかな感触が手に心地よかった。
「もう! 何するの」
 乱れた髪を手櫛で直しながら、そこまで怒っていない口調でパメラは言う。
 フューレはただ、笑っていた。




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