モーニングの時以外はほとんど客の来ない喫茶店がある。閑古鳥が鳴いても鳴いても鳴き飽きない点が、唯一の慰めであるくらいだ。
そうした寒々しい喫茶店である「二道」にもアルバイトの女の子が一人だけいた。
しかし、その彼女にも今朝に「すみません。辞めます」と言われてしまった。あまりの潔さに止める台詞も浮かばなかったくらいだ。
彼女に渡せたのは未払いであった半月分の給料だけだった。
道は二度と交わらない。
あの子と会うことは二度と無いだろう。
湿気たマッチのような気分で新聞を読んでいると、珍しく扉に付けているベルが鳴る。視線を向けると、花束を両手で抱えながらリュックを背負った、あの子と仲の良かった少年である。
デンジ君がいた。
「おや。いらっしゃい」
普段の着崩したスーツ姿ではなく、私服を着ている点から、今日はいつもとは違う用向きだと察する。とはいえ、ここで用件を聞くのは喫茶店のマスターとして失格だ。客とアルバイトの私情には踏み込まない線引きが大事になる。
デンジ君はばっばっという激しさで店内を見渡した。
「レゼ! ……来てるか?」
彼女はもう来ないよ。
告げるのは簡単だけれども残酷だから「まあまあ、座りなよ」と言って四番テーブルを示した。
デンジ君は大人しく席に座り、リュックは下ろす。だけど、大きな花束は大事そうにかかえたまま、離そうとしない。
机の上にある、あの子が置いた枯れた花との対比として、花束は美しすぎた。
首の折れた、花びらを落とした花を片付けようかとも考えたが、閉店が近づいてからにしよう。
それにしても、あの子が辞めた日にデンジ君が花を持ってくるとは。これは何かあったようだ。
デンジ君のテーブルに水を置いて、注文を待つ間にまた新聞を読む。悪魔によって台風が起き、大変な数の死傷者が出たという。ビルもいくつか倒壊したらしい。新聞は三面まで、悪魔による災害の報告と国の対応に触れられていた。頭を下げる写真を載せるだけで事を治められる役人というものはこの国に必要なのか、どうなのか。
「おっさん」
呼ばれて、顔を上げる。
「せめてマスターと呼んでくれない?」
だれた様子で背もたれに背中を預けながら、デンジ君は喫茶店の扉から目を離そうとしない。口だけが動く。
「この店でさ。レゼって、どんな奴だった?」
考えた。
「とても変わった子だったよ」
そもそも、どうしてあの子を雇おうと決めたのかもはっきりとしない。
辞めることになった理由も判然としていなくて、一応とばかりに「辞める理由は?」と聞いてみたら「田舎のネズミに帰りたくなりました」というよくわからない答えを返された。だけれども、この騒々しい都会にあの子が馴染めなかったのは伝わったので、見送ることにした。
その辺りには触れずに、あの子についての話をする。デンジ君以外には、きっともう誰も聞いてくれない。
「毎日遅刻ばっかりで、客が来ないのをいいことにノートと教科書を広げながら勉強をして。それなのに、学校の話をすることは一度もなかったよ。どうしてここで働いていたのかもわからない。そんな、変な子だったね」
「レゼって本当にヘンな女だったんだな」
「そう。振り回されてばっかりだったよ。あっちはアルバイトなのにね。ああ、だけど」
ふっと、瞼に浮かぶ。
「あの子が一番楽しそうにしていたのは、デンジ君がいるときだよ」
扉に向いていた、デンジ君の視線が、動く。
驚いたように見開かれた目はやがて瞼が下りて、口元にほろ苦い笑みが浮かんだ。
「そっか」
新聞をカウンターに置いて、厨房に立つ。ミルでコーヒー豆を砕いて、お湯を沸かし、ドリッパーを使いながらコーヒーを淹れていく。
今日も芳醇な匂いをさせているコーヒーカップを載せたソーサーを、デンジ君の前に置いた。
デンジ君はコーヒーを眺めてから、花束を抱え直す。
「飲めねえから、いい」
「店に来てもらったら、注文してもらわないと。あと、砂糖やミルクをどれだけ足してもいいから。ドブ味だって言われたままだと、こっちも立場がないからね」
また、カウンターに戻る。
「レゼはコーヒーを飲めたのか?」
「たまに飲んでいたよ。『マスター、すごく苦い』と笑いながらね」
「砂糖とかは?」
「スティックシュガーを二本。ミルクはピッチャーを一杯、足していたかな」
記憶を辿りながら答えると、デンジ君はその通りにしてくれと頼んできた。だから、スティックシュガーは机の上にあるものを、ミルクは小さなピッチャーに注いで渡した。
デンジ君はかき混ぜる。
そして、あの子と同じ比率のコーヒーを口に運ぶ。
「……やっぱり、マズいって。レゼ」
新聞を最後まで読み終えることにする。
あの子がここに来るまで、あと――――――。
あの子が来るまで
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