金木犀の月と青い桜の狐と

 その日、月が片割れの狐を連れなかったのは愛らしい嫉妬心からだった。
 その日、狐が連理の月を連れていかなかったのは探しても見つからないからだった。
 万屋の帰り道に前を向きながら歩く帰りの月である三日月宗近と、行きの狐である小狐丸。二振りは雑踏に紛れてすれ違ったあとに立ち止まって、振り向いた。
 目が合う。
 それは同じ孤独を宿した刀同士にのみ通じる、寂しさの合図だった。
 最初に近づいていくのは蒼い狩衣姿の、金木犀の薫りをほのかに漂わせる三日月宗近だ。その動きに気付いた青い桜を一枚、山吹色の衣につけた小狐丸は、三日月をかくまうように道から外れさせる。
 二人の顔に浮かぶのは共犯者の笑みだ。三日月は袂を口元に当てながら、言う。
「なあ。これは軟派ではないのだが。俺と茶でも一杯たしなまないか」
「魅力的なお誘いですが、私の月は嫉妬深くて可愛いのです」
 悩ましげに言いながらも小狐丸の手は人の群れから庇うように三日月を覆っている。それだけで否やは無いと知れた。
「それはそれは、素晴らしいことだな」
 物腰柔らかな狐が熱愛する月の愛らしさを褒めつつも、三日月は小狐丸と並び立って、赤茶色の煉瓦で組まれた喫茶店へと入っていった。
 二振りが並ぶ姿は不貞と責め立てるには堂々としすぎていた。気の置ける友人とも、袖がこすれあったわずかな縁を楽しんでいるようでもある。
 店の中で着物に掛け布姿の店員に案内されて、窓際の席に腰を落ち着ける。店内は蛍が照らす程度の明るさで落ち着くことができた。手元を見るのと相手を見つめ合うだけなら、何も不自由はない。
 三日月は注文表を開く。迷わずに決めた。
「黄色のくりいむそおだ」
「珈琲」
「大人だな」
「貴方も存外愛らしい」
 そう言ってにこにこと笑い合う三日月と小狐丸だった。ぱたんと注文表が閉じられる。
 鐘を鳴らす間もなく、茶を置きに来た店員に小狐丸が注文を伝え、確認されると、また二人きりの空間に戻っていった。
 店を流れる音楽には歌はなく、低い吹奏楽が響いている。普段は耳にすることのない重低音を楽しんでいると、小狐丸が先に切り出した。
「貴方の狐に不義理を働かされましたか? それで私に相手を頼みたいと」
「そんなことをするよりも斬ってしまった方が後腐れないぞ?」
 なにを当たり前のことを、と無垢に口にする三日月に小狐丸は苦笑した。どうやら想像していたよりも目の前の三日月は血の気の多い刀のようだ。青桜の三日月はどうにも控えめだから忘れていた。三日月宗近は落ち着いているが、決して大人しい刀ではない。
「おやおや怖い」
「まあ、そんなことは気軽にはせんが。いまは一人がさみしくてな」
 雰囲気がぱちんと音を立てたように切り替わる。狐も黙って聞き役を務めることにした。三日月に本来望まれていた役柄は間男ではなくこちら側なのだろう。傍観者よりは一歩踏み出しでいるが、関係者ではない。
「最近、心あらずの俺の狐は内気で美しい月に出会ったという。尻尾を引っ張って事情を聞き出したが、その月は目が合うだけで恥ずかしがり、はにかんだ笑みを浮かべるほどの大人しさで俺とは全く反対らしい」
 尻尾を引っ張られたという時点で小狐丸もぞわりとした。おそらく長い髪を指すのだろうが、それをぐいと引っ張られるのを思うと怖くなる。
 だが、三日月は頓着せずに言葉を吐き出していた。
「俺のことをすきだ好きだと言いながらも他の三日月宗近に心惹かれるなど許されない行為だ」
 そう言い締めて、茶を両手で飲む三日月宗近。
 嫉妬をあらわにしながらも直接は伝えられない三日月宗近。
 その不器用さが微笑ましかった。小狐丸の愛する月も内気で控えめな性格だが、嫉妬心は刀四倍ほどになる。
 三日月宗近は優雅な物腰と落ち着いた振る舞いで誤解されがちだが、内に秘める熱情は決して大人しいものではない。
 だから、この三日月宗近も三日月宗近に妬いているのだ。
「私も同じことをされたら悲しむでしょうね」
「だろう?」
 ずい、と身を少しだけ乗り出される。それに微笑みながら頷いた。
「ええ。ですが、そんな思いをしてくれてたと知ったら、意地の悪い狐はこっそり喜んでしまいます。つけ込まれますよ?」
「う……そ、そんな器用さがあの狐にあるとは思えないが」
 言いながらも柔らかなところを切り開いてしまったらしく、ぱしゅっと赤い恥じらいと戸惑いが吹き出す。
 そうだ。小狐丸という刀も性質は穏やかで物腰は柔らかいが、決して油断してはならない。あれでも狐、それでも狐。狐の番は一匹だけのように、愛する対象にはどこまでも偏執的で独占欲が強い。それは青桜の小狐丸の身にも宿っているからよく知っている。
 常に自分だけが相手を求めているのではないかという不安に苛まれ、相手の負担になりたくはないというのに自由にさせられない矛盾という紐で縛ってしまう。青桜の三日月はそれに喜んで身を委ねてくれているが、目の前の三日月は理由があってもなくても束縛を良しとしなさそうだ。凛とした自己がある。
 それでも。
「貴方の狐が器用であるにしろないにしろ、狐は好きな相手にこそ、したたかになるものです。だって、他はどうでもいいのですからね」
 言いながら思い出すのは小狐丸の胸だけに浮かぶ月。抱きしめて自分の熱にとろかされていき、あの月を宿した瞳に自分だけを映してくれる幸福は何物にも代えがたい。
 それは、目の前の月の狐も同じなのではないか。不器用であっても善良であっても狐は狐だ。そう簡単に性質は変わらない。
 会話の切れ目を察したのか、店員が、くりいむそおだと珈琲を運んできた。机の上に置いて去る。
 小狐丸は黒い泉のまま珈琲に口を付けるが、三日月はくるくると長い銀匙をかき回すばかりだ。落ち込んでいるらしい。
 全くもって常識のある三日月宗近だ。
 しばらくして、ようやく三日月がくりいむそおだの筒に口をつけて、すすったときだ。
 窓硝子にべったりと小狐丸が張り付いていた。
 おや。
 小狐丸は手を止めるが三日月はにべもなく見ようともしない。意地の張り方は、折れるところがわからなくて困っているようだ。
 窓の向こうの小狐丸は歩き回ったらしく、自慢の髪の毛も風に乱されていて顔も焦りに満ちている。三日月の反応がないことに諦めると、とぼとぼと入り口に回っていた。
 しかしすでに店内には待ちの客ができており、小狐丸は店員に止められて一番最後に並び直すことになっていた。小さな椅子に腰掛けながら不安を隠さない、隠せないまま三日月を見つめる狐に少し痛い目を見てもらうことにする。
 同じく小狐丸を気にしている三日月の、指先に触れるか触れないか、危ういところで手を止めた。ぴくんと反応される。
「あれが貴方の狐なのですね」
「ああ。そうみたいだな」
「で、あれの前で私を相手にしてみますか?」
 非対称の前髪に隠された、小さな真珠の耳殻に囁きを落とせばゆうるやかに頬が赤く染まる。魅力的な誘いに心をときめかせているわけではないのだろう。待機列の中心にまで進んだ、真っ青になって立ち上がっている小狐丸に対して仄暗い喜びを得ているようだ。
 なんとも意地が悪い。
 そうしてるあいだに、順番が回ってきた小狐丸は三日月の隣に腰を下ろした。店員は文句も注意もしなかった。
「捜しましたよ、三日月殿」
 ああ。この狐はそう呼ぶのかと感心してしまう。
 青桜の小狐丸にとっての三日月は「三日月」でしかないからだ。敬称も略称も必要なかった。
「俺がどこに行こうと俺の勝手だろう」
「そうですが、いないと寂しいです」
 しょんもりとする小狐丸と反対に澄ましている三日月の力関係に笑いながら、小狐丸は店を出ようとする。自分の珈琲代だけを置いて立ち去ろうとすると、ころんと小さな赤い包装紙が三日月の手から転がった。
「これは、礼だ」
 拾い上げると光を透かすびいだまのような飴だった。断っても良かったが、小狐丸は丁重に手に持って、頭を下げる。
「ありがとうございます」
 そうして小狐丸は店を出た。
 外では、袂を合わせつつ出てきた小狐丸をにらみつける三日月がいる。他のどの刀でもない。小狐丸が愛してやまない青桜の本丸の三日月宗近だ。
 店内に一人で入る勇気が無いようで、でも小狐丸がここにいることまではわかっていたようで、冷たい風が頬を冷やす中、一人で待ってくれていた。
 それが愛おしくて小狐丸は三日月を胸に招き入れる。ひんやりとした体に早く自分の熱が移れば良いのに、と思わずにいられない。三日月は顔を埋めて、頼りない力で小狐丸の衣をつかむ。
「何もありませんでしたよ」
「ああ」
 双葉が揺れる頭を一撫でした。
 今日の出会いは一度きりの偶然で、色褪せていく日々の一つでしかない。
 私の可愛い月もこの腕の中にいる一振りだけなのだから。


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    創ることが好きな人。
    こぎみかとリクサラを主に、世界を大切にしつつ愛し合うカップリングを推しています。

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