最近の本丸は二十四節季の景趣に留まらず、十周年を祝った華やかなる庭なども開放されている。それでも、本丸の片隅では紅の菫がいつだって慎ましく咲いているために、この本丸は「紅菫の本丸」と呼ばれるようになった。
紅菫の本丸に政府から下賜された三日月宗近は、極に至ったというのに初の出陣衣装のままで本丸を歩いていく。時に、豊前江から「今日の夕食は採れたての蕪だ」という話を聞くことや、秋田藤四郎が本丸の庭で見付けたありあけすみれを渡されることもあった。三日月は心優しい刀剣男士全てに等しく穏やかに微笑みかける。しかし、「すまないな」と申し訳なく一言を添えて、つれなく立ち去った。その背中を見つめ、他の刀剣男士は三日月が何を探しているのかを悟る。
三日月が本丸の奥にある書庫を覗くと、すぐに刀の気配が感じ取れた。そのまま入り組んだ書架の迷宮を進んでいき、厚い臙脂の緞帳で閉ざされた窓付近の書架へ歩いていく。
いた。
長い乳白色の髪を結んで、初の出陣衣装の小狐丸がぱらりと一冊の本を手にしていた。三日月の口の端が上がる。それは、ようやく見つけることのできた安堵と、いかにして驚かせようかというい悪戯心の入り交じった笑みだ。
三日月は足音を偲ばせて、小狐丸の背後にそっと近づいていく。けれども、あと七歩といった曲がり角の辺りで足は止まった。
小狐丸は読書に集中している。しかし、どのようにして驚かせたらよいものか。後ろから大きな声をかけるのも、書庫では禁じられている。三日月は考え、悩んだ。
「三日月殿?」
そして、驚かせるよりも先に小狐丸に存在を気付かれた。見つかった三日月はしょもしょもと小狐丸の前に姿を現す。そこまで小狐丸を驚かせることにこだわっていた訳ではない。ただ、先手を取られたことは癪だった。
「何を読んでいたのだ」
悔しさはおくびにも出さずに三日月が問いかけると、小狐丸は「ああ」と短く答えてから表紙を見せた。書かれている文字は「一条天皇」の四文字だ。
一条天皇とは「小鍛治」において、小狐丸を打つように命じた時の帝だ。大抵の刀剣男士は自身を所持していた者のところへ修行に行くというのに、小狐丸は一条天皇ではなく、三日月と共に自身を打ったとされる三条宗近のところへ向かった。すでに刀身が現世に無い小狐丸がかつての自身が打たれる様を知ろうとしたこと自体は筋が通っている。ただ、三日月は小狐丸が一条天皇に会わずにいたことも気に掛かっていた。
刀剣男士は時代を問わず、様々な主に所有されてきた。三日月のように歴代の将軍に所持され、ついには国宝とされた刀もあれば、小夜左文字のように名も無き民が手にした刀もある。その中で、かつての日ノ本の国の象徴とされる天皇の下にあった刀というのは、大変稀有なものであろう。
しかし、小狐丸は自身をただの刀剣男士として扱われたがる。それどころか、出陣においては「野生ゆえ」などとうそぶいていた。実際は、物腰の柔らかな落ち着いた刀だというのに、あえて乱暴な面を見せている。
小狐丸は図書を書架に戻して、立ち去ろうとする。三日月もその後に続いた。
「なあ、小狐丸殿。お主は本当は野生よりも礼節を好んでいるのではないか?」
「これはこれは。戦うにあたって礼儀など不要でしょう。そして、私のような粗野な刀には野生というものが丁度よいのです」
粗野などと、全く似合わない言葉を口にした小狐丸の髪を三日月はくっと引っ張った。小狐丸の足は止まり、困った顔で振り向かれる。
「俺は、嘘が嫌いだ」
「貴方はいつも真実を黙しているというのに、都合がよい言い分ですね」
「そうだ。嘘が嫌いだから、何も言わずに黙っている。だというのに、小狐丸殿。お主はいつだって、誰も彼もを誤魔化そうとする。もしかすると、自分すらも騙しているのではないか?」
たじろぎ、黙った。それから小狐丸は俯いた。
三日月はどこか自棄な様子でいる小狐丸に、丸呑みしたさつまいもが胸につっかかっるのに似た、もどかしさを覚える。
小狐丸と自分が似ている、とは三日月には思えない。だけれども、他のどの刀よりも近しい場所に立っていることは直感で理解している。同じ刀匠によって打たれたことも関係しているのかは不明だが、三日月は小狐丸にならいつかは打ち明けたいことが山ほどあり、小狐丸がそうではないことがとても悲しい。
小狐丸が一振りで立っているところに、三日月も立つことができたらどれほど安心できるだろう。
三日月は小狐丸の、触れられる限り近いところまで寄っていった。戸惑いはせども、小狐丸は三日月を突き放そうとはしない。その優しさが、いつだって三日月には辛かった。
小狐丸のふんわりとした髪をかき分けて、三日月は普段は決して見ることの叶わない、耳をあらわにさせる。それだけで胸は淡くときめいて、もっともっと触れてみたいとせき立てられる。
「こぎつねまるどの」
ふっと、微かな息と共に呼びかけたら、びくり。小狐丸は身を震わせる。
「ここが弱いんだな」
「耳、に触れられて、気持ちのよいものなどありませぬ」
とは言いつつも、小狐丸は三日月を突き飛ばしたり、遠ざけようとはしない。片目を閉じ、顔をしかめながらも好きにさせている。
三日月はばくばくと心臓が高鳴るのを聞きながら、そっと小狐丸の柔らかな線を描く耳殻に舌を這わせた。いつ誰が来るのかもわからない書架で行う愛撫は背徳的で、理性が制止するのとは反対に欲望に拍車をかけてくる。
ぴちゃ、ぺろ、くちゅり。とろ、ちゅ、かちゅ。
三日月の舌が小狐丸の耳を玩弄する。舐め、歯を立て、噛み痕を残していく。
それでも三日月のことを小狐丸は止めないのだから、多少は想われていると自惚れてもよいのだろうか。三日月はそういったことを都合良く考えてしまう。
二分半ほど小狐丸の耳を唾液で汚し、解放すると小狐丸はずるずると崩れ落ちていった。書架を背にして、床に尻を着けている。はあ、と洩れる吐息が男らしい。
三日月もかがみ、小狐丸に視線を合わせた。
「小狐丸殿」
そこで言葉を切ってから、もう一度、大切なことを告げる。
「俺を化かすことくらいは許してやる。だから、自分を誤魔化すな」
「……会いたい。そして、あの方に会える刀でありたかった」
結局はその想いに尽きるのだと、三日月は見透かしていた嫉妬を抱えながら、それでも小狐丸を丁寧に抱きしめた。
透明ジェラシー
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