夏の夕方は日差しの緩急が激しく、少し暗くなったかと思えば一気に夜までなだれ込む。だというのに、真昼の太陽が照らした熱は地面から冷めることはないのだから、茹だる暑さに包まれながら歩くしかない。
家までの帰り道を歩いていた天使ヶ原桜だったが、途中で見知った後ろ姿が視界に入り、自然と声をかけていた。
「ネビロスさん」
たたた、と軽やかに足を速めている間に、桜に呼ばれた悪魔は振り向いた。
「天使ヶ原桜」
ネビロスは律儀に足を止めてくれていた。桜が隣に並ぶと歩き出す。足を動かす速度は先ほどに比べると緩やかだ。以前の桜ならばその違いに気付かなかっただろうが、いまはネビロスが度々桜のことを気遣ってくれているのだと理解できる。
算文高校の生徒だった頃からネビロスが大人の男性ではあるとは桜も認識していたが、大学生にもなるとその優しさにくすぐったさを覚えずにはいられなかった。
商店街から住宅街へと切り替わるところで、桜はネビロスに尋ねる。
「仕事の帰りですか?」
「ああ。君は?」
周囲を眺めてから、桜は苦笑しつつネビロスの問いに答えた。
「サキュバスさんに頼まれて、いつものお手伝いです。今日は大学も午前中だけでしたから」
「そうか。宰相は、来ていたのか」
「今日はいなかったですよ」
桜の答えにネビロスは安心したように息を吐く。相変わらず、地獄でも苦労しているのだろう。深い事情は知らない桜だが、くすりと微笑んでしまった。
すでに住宅街へと入ってしまったため、人通りは少なく、あたりは静かだ。
ネビロスは自分から率先して会話を振ってくるような人ではないため、桜がぽつり、ぽつりと話すときを除くと交わされる言葉は少ない。だが、桜はたまに落ちる沈黙が決して嫌いではなかった。普段接する友人たちも勢いがよく騒がしいとすら言えるため、いま過ごしている静寂はネビロスと二人でいるときに多く生まれる。
こういった時間をネビロスさんと過ごすことが少し増えたのは、それは。
左門くんがいなくなってからだ。
二年前まで、天使ヶ原桜という存在の日常を愉快に脅かしてくれた相手は、算文高校を卒業すると同時にぱたりと姿を消してしまった。
彼は、ネビロスと桜が知り合うきっかけにもなった人だ。でなければ、ただの女子高校生と地獄の少将などという種族も立場も違う存在が知り合うことなどありえない。それほど、左門召介という存在は桁外れな存在だった。
桜の胸に季節に合わない冷たい風が吹く。その風に押された。
「あの、ネビロスさん。左門くんはいまここにはいないんですよね」
「そうだな。世界を放浪しているらしいが」
「左門君がいなくなったのに、どうしてまだこの街にいるんですか?」
桜が投げた正面からの質問に対して、ネビロスは眉を寄せた。頭に手を回すと、先ほどとは違う湿った息をまた吐き出して、気恥ずかしそうに説明を始める。その様子が意外で、桜はまじまじとネビロスを見つめてしまった。
「いまのバイトを辞めたあと、また別のところを探すのも大変だからな。マスターにも世話になっている。左門のために地上にいるとはいえ、簡単に辞めるわけにはいかないさ」
「それは、そうですね」
もし、ネビロスさんが左門くんを追うことだけを心に決めて、算文町から去ってしまうとしたら。
さみしい。
桜ははっきりと思った。ただ、どうして寂しいのかを考えると答えはすぐに出てこない。すでに桜の知っている風景の一部にネビロスがいるためなのだが、その点と寂しさが結びつかない。
日の暮れかけている空を見上げた。
左門くんとは二年間も一緒にいて、その間に楽しいことも大変なことも沢山あった。きっと、一生忘れられない人だ。
この空は左門のいるところにも繋がっているのだろうけど、その空の下はどうなっているのだろう。
「天使ヶ原桜」
「あ、きゃ!」
ネビロスの声によって現実に引き戻され、同時に歩き出そうとしたところで、転びかける。隣にいるネビロスが後ろから腕を回して支えてくれたため、無事に済んだ。
「ありがとうございます」
回された腕の温かさ。たくましさ。それらを感じつつ、礼を述べたのだが、ネビロスの腕は離れない。見上げるとネビロスは真剣な表情を浮かべていた。
まさか、という思いと、いやでも、と否定が交錯する。かつて、左門から告白されるのではないかと勘違いしたことがあった。きっと、今回もそういった流れだろう。
桜は何も言えない。ネビロスの視線を受け止めるだけで精一杯だった。
「俺が、まだ」
薄い唇から紡がれる言葉を黙って待つ。心臓はすでに加速を始めていたが、また恥ずかしい勘違いをしたくないと、宥めようとする。上手くいかなかった。
「ここにいるのが、天使ヶ原桜。君が、この街にいるからだと言ったら、困るか」
頭の中が真っ白だ。
本気とも、冗談とも尋ねることすらできない。
ネビロスさんはこんなことを軽く言う人ではないから。
夕日によるものなのかもしれないが、ネビロスは頬を赤くしながらじっと見つめてくる。その視線の柔らかさと真剣さに、桜は口をぱくぱくと動かした。
「あの、え、でも」
「混乱させてすまないな」
いままで、支えてくれていたネビロスの手が遠ざかっていく。そして、そのままネビロスは立ち去ろうとした。
桜は見送り、などせずにネビロスの夏でも着ているコートをつかんだ。がく、とネビロスは体勢を崩しかける。
「待ってください!」
「て、天使ヶ原桜!? 何を」
「それって、私のことが」
好きなんですか、という言葉を発することができなかったのは、決して多くはないが道を歩く人から怪訝な視線を向けられていることに気付いたからだ。
桜はネビロスの手をつかみ、公園まで駆けていく。手は、振り払われることはなかった。
つかみ返されることもなかったのは悔しかった。
公園のベンチに二人は並んで座り、先ほどの会話をやり直そうとする。だが、ネビロスは乗りたくなさそうな様子だった。
それならば、言わないでほしい。
「家には帰らなくていいのか」
「それどころじゃありません!」
向けた視線の先のネビロスは困った顔をしていた。左門を相手にしているのとは違う。どちらかというと、アンリといるときのような表情だということに気付くと、桜は急に不機嫌になってしまった。
ネビロスさんは優しいから。女性のわがままなんて聞き慣れているのだろう。
「さっき、言ってくれましたよね。私がいるから、この街にいる。それは、私のことが……」
続きが言えない。「好きだからですか」と尋ねたいだけだというのに、なんという自意識過剰な思いなんだ、という考えと、否定される恐怖が絡み合って、言葉にならない。
どうして、怖いのだろう。
今度は桜が顔を赤くしてネビロスを見上げていると、今日になって三度目の溜息が耳に届いた。
「そうだ。天使ヶ原桜。俺は君のことが、好きなんだ」
全身が熱くなる。血管を熱の塊がぐるぐると駆け回っていく。伝えるべき言葉があるというのに、何一つ形にならない。
ネビロスさんは、私が、好き。
「い、いつからなんですか!?」
「黙秘させてくれ」
「はあ、まあ、いいですけど」
また沈黙が落ちて、静寂に包まれる。今度は少しも居心地がよくなどなかった。恥ずかしくて、同時に乙女としての喜びにより気分が乱高下して、おかしくなりそうだ。
ネビロスさんのことは好きで、一緒にいる時間も居心地がよい。この人は絶対に傷つけてこないという信頼もある。
だけど、恋愛という意味で、ネビロスさんが私を見てくるとは、思いもしなかったんだ。恥ずかしさのあまり、これまでのことが走馬灯のように駆け巡る。左門くんといる時間と同じくらい、いまとなっては、それ以上。
私はネビロスさんと一緒にいる。
「……返事は無理にしなくていいぞ」
「えっ!?」
桜の沈黙をいつもの天使の優しさと受け取ったのか、ネビロスは寂しげに微笑み、ぽんと桜の頭の上に手を置く。
「俺と君は悪魔と人間だ。寿命も環境も違いすぎる。そもそも」
言葉が切られる。
「君を守ることができるだけで、俺は十分なんだよ」
そのとき、ネビロスが浮かべていた表情はただただ優しいだけで、諦めや後悔といった哀しい感情は一切なかった。
だから、本心だ。
ネビロスは報われず、ただ天使ヶ原桜を陰日向に守ることができたら、それだけでよいのだと、断言した。
桜の頭から手を放し、立ち上がり、ネビロスは歩き出す。
また、去りゆくコートを桜はつかんだ。
「勝手に一人で納得して、終わらせないでください! 私に振られることが、そんなに怖いんですか!」
「それは」
「振らないかもしれないのに」
桜の口からこぼれたのは小さな言葉だったが、ネビロスには届いた。向き直り、ベンチに座ったままの桜を見下ろす。
「天使ヶ原桜……?」
桜はつかんだコートを離さないことを決めながら、ネビロスの目を真っ直ぐに見た。
小さな瞳孔、嘘偽りのない真摯な瞳。そして、いつも私を見守ってくれていた。
「私はネビロスさんに恋をしているのかはわかりません。でも、このままお別れしたり、いままで通りでいるのはいやです。だから、ネビロスさんとお付き合いします!」
「なっ!?」
「いやですか?」
上目遣いに問いかけると、ネビロスは首を何度も横に振った。
「いやではない。いやでは、ないんだ。だが、本当に後悔しないんだな」
「はい」
きっと、いまこのコートを離して、ただ守ってもらう人にネビロスさんが戻ってしまった方が、後悔するから。
私はネビロスさんといる。
覚悟を決めて、桜は笑った。ネビロスが怖々と手を伸ばすので、桜は自分からネビロスの腕の中へ跳び込んだ。
いままでは決して触れようとしなかった場所に落ち着いてから、その一瞬で、確信する。
きっと、この人が悪魔であっても。私は恋をすることができる。この恋はまだ芽吹いたばかりで、咲くのか枯れるのかも分からないとしても。それでも、いまはこの人の隣にいる。
ネビロスは八秒ほど抱きしめてくれていたが、丁寧に桜を離すと、不器用に微笑んだ。
「帰ろう。家まで送るから」
「はい」
また、二人で並び、歩き出す。
夕日はすでに沈みはじめ、周囲は薄闇に包まれていた。それでも、心許なく思うことはなかった。
桜の隣にはこれから恋をするだろう悪魔がいるから。
恋は咲かずとも
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