旅立つ刀に餞の言葉を送る役割は与えられなかった。
霜月の半ばに、審神者から小狐丸へ近侍交替の勅が届いた。指示を受けた相手がへし切長谷部や巴形薙刀であれば、絶望の一端を顔に浮かべそうな辞令である。審神者を「ぬしさま」と慕う小狐丸も落胆がないわけではなかった。
ああ、また都合よく替えるのだな、と冷静に受け止める。
審神者も小狐丸の隠しもしない腹が当然見えているので、申し訳なく手を合わせるだけに留めていた。愚図愚図とした言い訳は侮辱でしかないということを理解している審神者だ。
その審神者が率いる本丸は赤葡萄という二つ名を持っていた。本丸の敷地に一年の間、赤葡萄が揺れるためだ。
赤葡萄の本丸の審神者は勇敢な女性で熟練の域に達しており、所有できる刀は全て手にしている。頼りがいもあるため、刀剣男士からの信頼も厚い。小狐丸も当然、審神者のことを気に入っている。
だから、今回の勅も粛々と受け入れた。
「すまんね。修行の時は縁ある者に見送られるようにしたい。肥前君と南海先生は政府から託された経緯もあるから、なおさらさ」
「私は三日月には見送ってもらえませんでしたが」
「それは君たちの問題だろう。私に言われても困る」
苦笑する審神者に小狐丸は納得の微笑を浮かべた。
小狐丸が修行に旅立ち、すでにもう結構な年月が経過している。だというのに、小狐丸は自身が修行に向かうと言った際の三日月の態度をいつでも思い出すことができた。
三日月は呆然とし、愕然とし、小狐丸がどうにか宥めすかして納得させた後に逃げ回った。そのため、赤葡萄の本丸の小狐丸を見送ったのはどうしてか、和泉守兼定になった。始まりの一振りである歌仙兼定の兄弟分であり、堀川国広という強力な相棒がいるために、一番、三日月の妬心による被害を受けない刀だと判断されたためだ。
修行に関する後悔はないのだが、三日月に見送られずに旅立ってしまったことはいまでもさみしい。もう一度、修行をやり直せるのならば今度こそ三日月に見送ってもらいたい。
だからこそ、見送る刀を主が選別し、また頼んでもらえる肥前忠広と南海太郎朝尊が少しばかりうらやましかった。かといって、当時の三日月は主に頼まれても小狐丸を見送ったかというと、それはないと断言できる。
あのときの三日月宗近は手も目も心も塞がっていた。小狐丸の差し出す手にも気付かず、向けた視線すら合わせずにいて、心は当然通じ合えなかった。
それほど、後に訪れる戦波に構えていたのだろう。いまではわかる。だが、あのときはわからなかった。だから、番である三日月に対して少々大人げない態度を取ってしまい、一期一振に仲介してもらう羽目になった。
過去を振り返るのは近侍の任を解かれた故の余裕だろうか。
小狐丸は膝を突き、拳を床について審神者に部屋を辞する旨を伝える。了承する審神者だが、まだ申し訳なさそうだった。小狐丸は常の通り朗らかな笑みを浮かべて、審神者の部屋から退室する。
廊下を歩き、自室に戻る途中だ
「おや」
「おや」
小狐丸は内番姿の南海太郎朝尊とぱたりと顔を合わせた。
一瞬の驚きを笑顔で覆い隠し、にこりと夕方の挨拶をする。南海も余裕ある振る舞いで返した。
「修行に行く日が決まったそうで。お気を付けていってらっしゃいませ」
「まだ、僕が先に行くのかそれとも肥前君なのかもわかっていないよ。と、言いたいけれど、近侍だったね。小狐丸君は」
「ふふ」
滅多にされない呼び方がくすぐったい。
小狐丸は一礼をして立ち去ろうとする。だが、呼び止められた。振り向くと微笑を崩さないまま言われる。
「君は、どうしてかつての主ではなく、三条宗近のところに行ったんだい?」
好奇心豊かな南海のことだ。純粋な興味か、些細な疑問として口にしたのだろう。予想は付く。また、刀剣男士もひねくれた刀やこじれた性質のものなど、多種多様に揃ってはいるが、おしなべて善良である。悪辣な刀が励起されることはない。もしありえたら、歴史を守ることなどできはしない。
だから、南海の問いに悪意はない。
理解していても返答には困った。
大抵の刀は修行の際には時を遡ってかつての主のところであったり、名を付けられることになった由来のある地へ行く。
だけれど、小狐丸は層がずれていた。
自身を打った片親は紛れもなく三条宗近であるが、名の由来は稲荷明神だ。
主として高名なのは一条天皇であるが、彼との逸話は多くない。
歴然とした二つの事実が小狐丸を苛む。ちりちりとした痛みと同時に思うのは、いま、ここに三日月がいなくてよかったということだ。自身の毛並みがわずかながらに逆立つことに気付いたら、三日月は南海に圧を発していただろう。
小狐丸は番が自身を労ってくれるだろう夢想に愛しさを抱きながら、南海に向き直った。
「私が、三条宗近のもとへ旅立ったのは」
もう顔はわからない。だけれど、確かに思い出すことができる。千年の時を経て、なお、魂に焼き付いて離れない。
大切な主。
「一条天皇とのつながりがなかったためです」
にこりと微笑んだ。
小狐丸という刀は確かに現世にも何振りかは存在している。しかし「小鍛治」でうたわれた小狐丸の有無はいまだ不明なままであり、本丸に顕現した小狐丸は幻想の刀の面も強い。同じ三条の刀で兄でもある、今剣や岩融のように自覚も他者からの明言もないままに、小狐丸は曖昧に存在している。
一条天皇に乞われて打たれたことも確かではあるが、現実の出来事だとは証明できない。だから、小狐丸は三条宗近のもとに訪れることにした。
もしも、一条天皇が護国豊穣の刀を打つように命じたことなど史実になかったら。小狐丸は自身を証明できなくなってしまう。歴史の異物とされて消去されてしまう。
あまりにも危険な手だ。
小狐丸も刀剣男士として励起されたが、任務に励みつつも自身の意思と願いがあるために、消えるわけにはいかなかった。
だから、行くことができなかった。会うことが叶わなかった。
いまも敬意と愛慕を忘れていない主上のもとへ、名と姿を隠しながらも、相まみえることはできなかった。
南海は小狐丸の話を聞き終えて納得したようだ。自身の質問の残酷さに気付いてはいるだろうが、謝罪することはしないまま頷いた。
「僕が修行に行く場所は決まっているだろうけれど。何をすればいいのかはわからなかったから、小狐丸君の話はとても参考になったよ」
「ええ。軽挙妄動にはお気を付けてください。貴方は目の前のことに熱中するあまり、周囲が見えなくなることがありますから」
「肝に銘じておくよ」
会話は南海が切り上げた。小狐丸の脇を通り抜けて、向かうのはおそらく審神者の部屋だろう。
小狐丸も自室に向かって歩き出す。閉められた障子を開けると、畳の上で寝っ転がっている三日月がいた。布団も敷かないで、と思うところだが大抵は小狐丸が眠る前に二振り分の布団を敷いているので、その習慣が抜けていないのだろう。
「三日月」
南海に語るよりも低い声で呼びかける。肩を揺らすと、三日月はゆっくりと目を開けた。
月が見える。宵闇に浮かぶ、月が小狐丸の心を捉えた。
「あにさま」
寝ぼけた舌足らずな声で呼びながら、三日月は小狐丸へしがみつく。肩にぐりぐりと頭を寄せられて、その温かさに微笑みながら小狐丸は三日月の背を叩いた。
「近侍の任は外された。しばらくは、また、お主といられるだろう」
「本当か」
顔を上げて三日月は笑う。小狐丸も同じ笑みを返した。
いま、確かに、三日月宗近という弟であり最愛の番が腕の中にいてくれる。千年前には二度と会えないことを覚悟した。だけれども、千年の約定を守り、三日月が意地で小狐丸を引き寄せたから、こうして共にあることができる。
かつての主である一条天皇への愛着を捨てられぬというのに、審神者であるぬしさまに惹かれるということ。それが刀剣男士の本能であるとしても、私は抗わない。
自分の意思で、私が愛することを選んだのは、三日月であるから。
忠愛と愛欲の違いにほろ苦い笑みを浮かべながら、小狐丸は三日月の額に自身の額を合わせた。
本能に依らない選択
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