青の桜が空に輝き、舞い落ちては地に眠るため、その本丸は青桜本丸と呼ばれていた。
その、青桜本丸に属している一部の刀たちが海へと出かけた。過去に跳ぶ遠征などによってではなく、行き先は政府が用意した福利厚生のため施設で、刀剣男士と審神者しかその海辺には入ることができないようになっている。突然、放棄された世界に出陣を命じるなど無茶を降ることも多い政府だが、全てを本丸任せにしているわけではなかった。
その海へ向かう刀たちの中に珍しく小狐丸と三日月宗近も加わった。正確には、小狐丸が源清麿に誘われたので三日月も必然的についていくことにした。自分は勝手にどこへでもいくというのに、三日月は小狐丸が自分を置いてどこかに行くことを許さない一面がある。それは過去の記憶がそうさせるのか、ただ兄離れできていないのかは不明だが、三日月は決して真実を明かそうとしなかった。小狐丸も解き明かそうとしない。
そうして、いまは海だ。
海に向かって駆け出す短刀や打刀を微笑ましく眺めながら、三日月は浜辺にある海傘の下で白い長椅子に腰掛けている。その目の前に、透明な容器に入れられた黄色い蜂蜜果汁が差し出される。手の先を辿ると当然、小狐丸の顔があった。
「どうぞ。れもねえどです」
「ん」
尽くされることに慣れた素振りで容器を受け取る。刺された紙製の筒に口を付けると、三日月は甘くてほんのりと酸っぱい液体を吸っていく。小狐丸は満足しながら甘さを味わう弟を眺め、そのまま三日月の隣の椅子に腰を下ろした。
日差しは痛いほどではないが眩く照り渡り、世界を白に染めている。普段は夜に彩られている三日月だが、いまは一転して昼の月といった佇まいだ。青い空に浮かぶ白く儚い月の姿を連想させる。
何度、目にしても見飽きない美しいかんばせに、この両手ならば覆うことができそうなほど男性にしては細い首筋に、その下にある服で隠されている肌にまだ刻まれているであろう痕を考えるとくすぐったいような、優越を覚える。
ざ、と砂が散る音がした。
「小狐丸」
「源清麿殿」
呼びかけられて、顔を上げると水心子正秀と共に小狐丸を誘った源清麿が訪れた。二振りとも三日月と小狐丸のように上着を羽織っている。ただ、色は黒だ。
まずは誘ってくれたことの礼を言う。
「今回はお誘いありがとうございます。ですが、どうして私を誘ってくれたんですか?」
「そうだね、正確に言えば三日月に来てもらいたかったんだけれど、断られそうだったから。ちょっと策を練らせてもらったかな」
「なるほど」
小狐丸が行くとなれば三日月も来る。それは良い判断だ。
しかし、どうして三日月に来てもらいたかったのかは謎のままだ。清麿は視線から疑問を読み取ったのか、何も言わずに水心子を前に出す。
「き、清麿」
「ほら。いい機会なんだから。言いたいことはちゃんと言いなよ」
「う……」
以前から水心子は三日月のことを気にしていた。だけれど、直接話しかけることはなく、それでも話す機会を探していたらしい。その場を用意するのは気遣いができて親友を大切にしている清麿らしかった。
小狐丸は黙る。三日月は筒から口を離して水心子からの言葉を待っている。二対の視線を受けながら、深呼吸をして、水心子はようやく口を開いた。
「み、三日月宗近……」
「ああ」
「どうして、三日月なんだ?」
「ん? 満月の方が好きか。だが、俺にはもうどうしようもないところで三日月という印象が焼き付けられてしまったからなあ。こればかりはもう、どうにもできんよ」
「違う」
もどかしげな水心子だが、本人も何を言いたいのか正確には理解していないようだ。それを明確にするのは小狐丸にも、清麿にすらできない。だから、見守るだけだった。
「私もよくわからないのだが、三日月宗近。貴方は三日月でいいと思う。ただ、これ以上欠けるな。……どうしてか、ずっとそう思っていたんだ」
切実な声に、小狐丸は応えない。だけれど、感謝していた。
自分には言う資格のない、だけれど常に願っていたことを口にしてくれる刀がいた。それが、のんびりとしているが頑固で自分の決めたことは譲らないばかりか、他の刀に明かしすらしないで行動する三日月に、影響を与えられるかは不明だ。だけれど、自分を気遣う相手がいると知ったら多少は行動が鈍る。そういう不器用さがある刀が、三日月宗近だ。
水心子の言う通り、三日月は欠けるほど一振りで身を削らなくて良い。誰かに縋っても、頼ってもよい。それなのにしようとしない。
自分にもしてくれない。
それがいつももどかしくて尽くすことしかできない己が悲しかった。だけれど、いまは少しだけ救われた気持ちになれた。
これで三日月がもう少しでもいいから、他の刀を気にして自重してくれるならいいのだが、それは贅沢というものだろう。
水心子からの言葉を聞いた三日月はいつもの微笑を浮かべて頷いていた。
ああ、わかっていないで誤魔化そうとしているな。
小狐丸にはそれがわかっていたが何も言わなかった。
水心子は去っていく。清麿もその後をついていく。一度だけ振り向いて、苦笑してくれたのは小狐丸の苦労を察してくれたのだろう。
自分たちにもいつの間にか、頼れる仲間が増えたものだ。
「ねえ、三日月殿」
「ん?」
「海に入りませんか?」
「すまないが、遠慮しよう」
思いがけない答えだった。断られるのは珍しい。どうしてだろうと考えて、冗談混じりに口にする。
「まさか、貴方は水が怖いのですか?」
「何を言う。風呂は好きだぞ」
「風呂はお湯であって水ではないでしょう。なるほど、三日月は水が怖いと。初めて知りました」
この場に来なくては知ることができなかったものもあるものだと感心しながら、苦手ならば仕方がないと海を眺めて楽しむことにする。潮風で髪が傷まないかは心配だが、今日は来てよかった。
かん、と音がした。三日月が椅子の横にある机に容器を置いた音だ。
自分を見る目が、気のせいか、据わっている気がした。
「俺は、水も大丈夫だ。行くぞ」
それだけを言うと、真っ直ぐ海に向かって歩き出す。その背中を見つめながら小狐丸は肩をすくめた。負けるのは構わないと言うくせに、自分にはどうしてこうも負けず嫌いな面も見せるのか。複雑な刀だと息を吐きつつ、後を追って隣に並ぶ。
黙って歩き、水面に足を差し入れた。その瞬間に三日月の体がびくりと震えるので、後ろに回って抱き寄せる。そうしながら、少しずつ海へと進んでいった。
「無理はしないでください」
「……無理はしていないし、大丈夫だ。あと、怖いんじゃない」
では、と続きを促す。
「知らないものがあるということが、面倒なだけだ」
ああ、そうか。この刀は長らく人の手によって大切に、保存され続けていたから、海を知らないのだ。
海を知らないのは自分も同じだったが、現世について百を知るだけで去っていたこの身と万を知り尽くしている三日月にとっての知らないもの、というのは重さが違う。
軽々しくからかっていいことではなかった。
「そうだったのですね。ですが、知らないことがあるのでしたらこれから知っていけばいいでしょう。大丈夫ですよ。その時は、私が一緒にいてあげます」
「言ったな」
「ええ」
ふ、と三日月の口元が綻ぶ。そうして。
小狐丸は三日月に手繰り寄せられるようにして海の中へと身を投げた。浅いところなので、全身が沈んだまま浮かび上がらない、ということはなく、二振り揃って水面に顔を出す。
しっとりと濡らした髪を細い面に貼り付けながら、くすくすと笑う三日月が、ああ、無性に愛おしい。
小狐丸は胸まで浸かりながら、三日月の頬に手を添えた。近づく顔。普段なら互いの皮膚をくすぐる髪もいまは濡れている。
群青色の空と白い光に炙り出されながら、小狐丸は三日月の唇に己の唇を重ねた。
塩辛い中にも眠る透明な甘さに、確かに三日月という存在を感じる。
10.海
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