1.晴れた日に(とうらぶ/こぎみか)

 その本丸は屋敷の裏手の池に翠の蓮が咲いていることから翠蓮本丸と呼ばれていた。
 顔に白い布を垂らしている白髪の女審神者の部屋の縁側には、三日月宗近が腰掛けている。青い狩衣姿ではあるが胸のあたりにゆったりとした膨らみがある。
 翠蓮本丸の三日月宗近は女性の体を持って顕現した。そのためだ。
 個体差か、打撃や衝力といった部分は刀剣男士の三日月宗近に比べて数歩引くところはあるのだが、それ以外では偵察等を他の刀任せにしない長所もあるのが翠蓮本丸の三日月宗近だ。のんびりぽやぽやとしているが真面目な部類の三日月宗近に入るらしい。
 同じ女体という気安さもあってか、三日月は茶を入れていた湯飲みを盆に戻すと主に向かって、てこてこと近寄る。主は黙って細い筒型の筆を動かしていた。そのまま空に浮かんでいる青い板に何事かを記している。いつ見ても不思議な光景だと思いながら三日月は主に向かって声を上げた。そこらの男なら聞いただけで何でも言うことを聞いてしまいたくなる、甘えた猫の声だ。
「なあ、主。主。俺もそろそろ修行へ行きたい」
「だめ。順番」
 しかし、その声を耳にしても主はすげなく却下する。三日月は柔らかく目を細めたまま口元を尖らせる。
 いまの三日月の練度は七十二程度で、修行に行かせたら今度は周囲に追いつかせるのが大変になってしまう。それが主の言い分であるのは承知しているのだが、ならば早く鍛えてくれというのが本音だ。しかし順序というものを頑なに守るこの主は、顕現した刀から順番にゆっくりと鍛えていき、時間遡行軍の穏攻を食い止めている。いまは歴史修正主義者の手も緩んでいるため、焦らずに戦力を増強すべきだ。そう考えて万事手際よく平静を保ちつつ、依怙贔屓をしないという立派な主だ。
 だから三日月の得意技であるたぶらかしが通用しない。名のある将軍すら魅了してきたというのに、この主は三日月のことをさほど特別視しなかった。それは心地よくもあるがこういう時に厄介だ。
 三日月は末っ子気質で我が強いことを自覚している。だから、自分の思った通りに事が運ばないと焦れてしまう。周囲はいくら待たせても良いが、自分が待たされるのは嫌なのだ。
 特にいまは、あの刀が絡んでいる。
 三日月はどう主に甘えようか、腕を組んで考えていると、さっさと足音が聞こえてくる。「失礼」の一言の後にぱあんと障子が開かれた。
「三日月!」
「小狐丸!」
 白い極の衣装がなんと憎たらしいことか。
 瞼と長い睫毛を下ろして三日月はじっとりとにらみつけるのだが、小狐丸はすたすたと近寄って威嚇する三日月を小脇に抱えると、荷物のようにぶら下げる。
「ぬしさま、失礼しました。出陣の報告は後ほど謙信景光がいたします」
 そうして去っていってしまう。主は振り向きもしないで頷き、手を振るだけだ。
 同じ女性だからたぶらかせないのか、それともこの主が真に淡泊なのか三日月は考え込みながら、小狐丸に重い思いをさせていた。
 そうしているあいだに、三日月は本丸にある茶屋に連れてこられる。茶屋といっても簡単に茶を立てられる道具が用意してあるだけで常駐の主人はいない。翠の蓮を愛するために設けられた一席だ。コの字型に椅子が用意されてその上には赤い布がかけられていた。
 小狐丸はそこに三日月を落とすと、奥側に座る。三日月はすぐに小狐丸の膝に紺色の頭を預けた。ここが三日月の独占席だ。他に狐や猫が居座ろうとするがそのたびに図々しいと牙を剝いて追い払う。だから小狐丸の膝に座ろうとする根性がある猫は、一匹だけになってしまった。
「あまり、ぬしさまを困らせるんじゃありませんよ」
 あの女性が困るなどという殊勝な態度を見せるはずがないと三日月は知っている。本音を言うのならば面倒がっているのだろう。
「いまのままでは俺は小狐丸と、一生出陣できないぞ」
「それでいいではありませんか」
 言う。小狐丸は三日月の白い頬に黒い手袋越しに触れた。その手の優しさから、小狐丸が三日月の柔肌に傷がつくことを厭うていることは伝わってくる。
 小狐丸はすぐに三日月を閉じ込めようとする。実際に、閉じ込められたことも片手で数えきれるほどある。そのたびに三日月が障子や扉を破壊してきたために手段を変えて、いまは感情に訴えてくるようになってしまった。
 三日月には小狐丸の思考と行動が理解できない。
 戦うために自身は喚ばれた。三日月としては小狐丸に肉体を持って嫁ぐために、利用させてもらっているのもある手前、時の政府や主への恩返しとして第一線で戦いたいだけなのだが、小狐丸はそれを頑固に否定する。
「貴方は刀剣男士ではないのですから、無理に戦わなくていいのです」
「体は女性だが、心は認められたではないか。ならばお主と一緒に戦いたい」
 この線がいつも平行線になる。
 戦わなくてよいと甘やかす小狐丸と、戦うためにいるのだからと三日月。
 三日月が戦わないのならば一緒にいられなくてもよい小狐丸と、小狐丸が戦うのだから一緒にいたいと願う三日月。
 どうしてこんなにすれ違うようになってしまったのだろう。
 まだ、肉体を持たず刀の身で共にいられた頃は小狐丸とは全てが同じ思考だった。小狐丸が右を向くときに右を見て、上を見上げたら上を見上げ、霊力が足りなくなったら同じものを食してきた。
 それなのに、本丸で再会できた小狐丸は距離を取ってくる。さらに閉じ込めようとする。
 いまの三日月は小狐丸が何を考えているのかさっぱりわからない。それが、悲しくて苦しかった。
 小狐丸の触れる手は優しいからなおさらだ。
「私の三日月。一つだけなんでもわがままを聞いてあげますから、当分はぬしさまのところへ行かないように」
「わがままかあ……なら、晴れた日。その日にはいつだって、お主と出かけたい。この本丸の中だけでもいいから」
 とろとろと眠気に誘われて瞼を閉じかけながら、三日月は言う。
 わがままにしてはあまりにも他愛ない内容だが、三日月としては太陽の眷属である稲荷明神によって打たれた小狐丸を繋ぎ留めるには、これしか手段がないように思えた。いま、この時は。
「はい。約束です」
 小狐丸は躊躇せずに同意した。
 騙すし、たばかりもするけれど、嘘は吐かない狐の小狐丸だから。これから晴れた日にはずっと一緒にいられるのだろう。
 そう思いながら暗闇に意識を落とそうとすると、小狐丸の名が呼ばれる。また、出陣するらしい。
 三日月は体を起こす。くわりと欠伸を小さくすると、空いている右手に小狐丸の唇が落とされた。
「約束をしましたからね。もう、ぬしさまのところにはいかないように。私の部屋で大人しくしていてください」
 それだけを言い残して、小狐丸は去っていった。
 出陣するために三日月を残して向かうのだ。戦場へ。また、手にも肩にも傷を作って。
「ばかもの」
 三日月は小さく呟いた。

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    創ることが好きな人。
    こぎみかとリクサラを主に、世界を大切にしつつ愛し合うカップリングを推しています。

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