冬はもう十分に居座ったとばかりに、去るときは軽やかにいなくなっていった。挨拶もしない。痕跡も残さない。
代わりに外に出ると、出迎えてくるのは薄紅の花弁と肌を包み込む陽気で、それらは雄弁に告げてくる。
春が来た。
鼻を鳴らすと埃が混じったけむたい匂いがする。冬の透明な痛みとは正反対だ。
もう少しで新年度に切り替わる。今日はその前に、一時の休息を味わおうと、料理も作らず掃除もせずに、堕落のためにコンビニエンスストアへ買い物に出る。
愛想のよい店員の挨拶に出迎えられて、選ぶものは何にしようか。せっかくの春の新商品でもあるおにぎりの新作でも試そうかと悩んだが、近くに公園がある。そこで食べよう、と考えて、おにぎりに卵焼きやウインナーといったおかずが詰まっているセットを選んだ。
そうして、期間限定の緑茶を選んでからレジで買い物を済ませる。
店員はまた元気よく声を上げた。
まだ、学生かもしれないというのにいっぱしの顔をして接客しなくてはならないのだから、コンビニエンスストアの店員というのも大変だ。
社会人である身としては、つい同情をしてしまう。
坂を下りて、横断歩道の前に立ち止まる。信号は赤だ。レジ袋を片手にして、切り替わるのを待つ。
大学への進学を諦めて、その後は就職をするために必死に履歴書を書いて面接を受けていた、かつてを思い返す。あの頃は春が来たら、社会の歯車になるのかと期待が三分の一、憂鬱が三分の二を占めていた。勉強はしたかったわけではないが、もう少し悠々自適に生きたかった。
だけれどまあ、社会人というものも案外性に合っていたらしく、新都でなんとか土木工事の仕事をこなしている。数年前に小さな事故が頻発していた折の復旧作業とやらで、景気が良いのはいいことだ。
信号の色が変わる。
青になり、進んで、もう少ししたら公園だ。歩いていく。
公園の入り口に立つと、桜が両手を広げて微笑みながら歓迎してくれた。想像以上に盛大な咲き具合に一歩立ち止まってしまうほどだ。
はらはらと一秒も待たずに花弁を散らしながら、それらを恨むことはしないで、粛々と咲いている。
公園の中ではすでにビニールシートを広げた花見客がいくつもいた。どこも盛り上がって、楽しそうだ。
中央の道を歩いて、空いているベンチを探す。幸いにも一つだけ残された木製のベンチがあったため、そこに腰を下ろした。
桜も近くにありにけり。
春というだけで、世界は許しを迎えた気分になるのはなぜだろう。思いながら、ペットボトルの蓋を開けて新茶を喉に流し込んだ。
蓋を閉めて、顔を上げた先のことだ。
陽気に騒いでいるあの女性は、かつて英語教師であったタイガーこと藤村大河だ。などと思い、他にも視線をさまよわせると、いた。
間桐桜だ。
かつて、同級生ではあったけれども、言葉を交わしたことはあっただろうかなかろうかという少女が、沢山の人に囲まれて微笑んでいた。
当時はいつもうつむいている少女だった。次の授業での必要事項を他の生徒から伝えられるときも、頷く程度の反応しかしなかった。
だから、間桐が笑顔を浮かべるところなんて想像もできず、ただの同級生として時間は過ぎていった。間桐はこちらのことなど覚えてすらいないだろう。大げさではなく、周囲に関心を持たない少女だった。
それなのに、いま、手に持った透明なコップにジュースを注がれて笑っている姿は春を表しているようだ。
冬の終わりを迎えて、溶けた雪による川を飛び越えながら、柔らかに咲いて世界を彩っている。
その姿を、ただ見ていた。声はかけない。かけても意味は無い。無粋な闖入者になるだけだ。
先ほど買ったパックを開いて、鮭のおにぎりをかじる。
間桐の笑顔を見ているだけだというのに、なんだか楽しくなってきた。
自分たちは決して交わることなどない。一瞬だけ線が近づいただけの関係だ。その線もすでに遠くへ伸びている。距離は生まれていくだけだ。
それでも、間桐の仮面のようだった顔が砕けて、微笑みを浮かべている姿を見ただけで、小さな春を見つけられたと笑ってしまう。
ああ、人は変わり、そして春は祝福するのだと。
知ってしまった。
36.仮面
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