祭の翌日の朝は多彩な残響が耳に残っている。
囃子。笛の音。盆踊りのための掠れた音源。楽しそうに笑う、日常を生きている人々が非日常に混ざる高揚感により調子が上がる声などだ。
一度は遠ざかったそれらをいまは当然のものとして受け入れながら,衛宮士郎は布団からから起き上がると台所へ向かって水を飲みに行く。
水道の栓を捻って開けて、透明な水をこれまた透明なグラスに注ぐ。ぐい,と傾けると冷たい液体が喉を滑り落ちて腹に溜まっていった。乾きが潤っていく。
夏だ。
士郎はコップを洗って水切り籠に置き、居間に戻ってから縁側へと出る。いつもの鍛錬をするのに蔵は暑いだろうなあと考えていると、いた。
「おはようございます。先輩」
士郎よりも先に穏やかに声をかけてきたのは、同居人であり恋人というには複雑すぎて伴侶というには大袈裟すぎる、一人の女性だ。紫色の髪を朝だというのに流れるように整えているのが美しい。
士郎は当たり前の奇跡に微笑みながら、言葉を返す。
「おはよう、桜」
彼女の名前は間桐桜といって生徒時代の頃からの付き合いであり、多くの天変地異の出来事を乗り越えて、いまは隣に並んで暮らしている。
互いが選んだ場所だ。二人で掴み取った、現在だ。
士郎は桜の隣に座る。朝の日差しはまだそこまで眩しくはないが、地面を白く照らしつけている。
「昨日の祭りはどうだった?」
「楽しかったです。提灯も、屋台の灯りも、先生の言っていた通り綺麗でした」
控えめに、それでも普段よりも明るい声で紡がれる内容に黙って微笑んだ。
昨日は桜の初めての夏祭りだった。まだ、衛宮の家に来るようになった頃にも藤村大河から夏祭りに行こうという誘いはあったのだが、結局行けなかった。それからいくつもの季節を共に歩いていって、今年こそはと決めた。
夏祭りに行こうと。
弓道部に始まる様々な交流により他人と接することに慣れてきたとはいえ、いまだ人混みの多いところを得意としていない桜だ。しかし、昨日の祭は楽しむことができた。そのことが嬉しい。ようやく見ることの叶った、大河が見立ててくれた薄紅色をした桜柄の浴衣姿の桜は、はにかんだ笑顔と相まって誉め言葉などでないほどに可愛らしかった。
二人で、手を繋いで屋台を回るのは初めてだったが、気恥ずかしくも心地よい時間だった。
また一つ、桜に日常となる特別な思い出を与えられたことに満足する。
「来年も行こうな」
「はい。でも、私はやっぱり欲張りになってしまいました」
不意に言われて首を傾げる。
「先輩としたいことが、たくさん増えてしまったんです」
たくさんと言っても、それは普通の人からしたら微々たるものだろう。桜は欲がない、薄いのではなく我慢する癖を身につけてしまっている。自分といられることだけを切望してくれるのを喜べるほど、士郎は愛されることを望んでいない。士郎だって桜と共にいたくて、守りたいのだ。
「いいよ。一つずつやっていこう。桜のやりたいことを」
「先輩……」
その笑顔が。
喜びを涙としてこぼしてしまいそうなほど胸を切り付ける笑顔に愛おしさを覚えながら、士郎は距離を詰める。
「おいで、桜」
「はい」
そうして振り注ぐ光の雨を浴びながら士郎と桜は寄り添った。
同じ空の下で時を過ごせる。
桜がいてくれる。
夢を代償にして手に入れた、十分すぎる幸福だ。
11.同じ空の下
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