64.空に浮かぶ島

 春の始まりが訪れる季節になる以前から、黄色い蓮は緑の葉の隙間から顔を覗かせるようにして咲いている。
 その蓮があるために、黄藤の本丸と呼ばれるようになった本丸が、あった。
 黄藤の本丸は中堅どころといった具合で、刀剣男士は満遍なく修行に向かい、鍛えられている。ただし、つかみどころのない審神者から寵愛を受ける刀剣男士は、いなかった。
 いま、廊下を歩く小狐丸もそうだ。修行を終えたことにより、真白の極の出陣衣装に身を包んでいるが、主とは利用し利用される関係といえた。
 慣れた足取りで、自室に向かうよりも通い慣れた部屋に向かう。そこには異常があるはずだった。
 大抵の本丸では、ありえないものがある。
 それは、いまは文机の上に絵本を開いて、じっとある頁を眺めていた。
 小狐丸はそれの集中力に感心しながら、呼びかけた。
「宵」
 それこと、刀剣男士未満の幼子である宵はぱっと顔を上げた。笑顔を浮かべることはないまま、無表情で手を振る。
「ににさま。たいへんだ」
「なんじゃ」
 唐突な呼びかけに小狐丸はのそりと歩いていった。そうして、宵の隣に腰を落ち着ける。
 宵は絵本の二頁を見開いて見せてきた。小狐丸は絵本に視線を移す。
 絵本には「わたがしのしま」と書かれていた。
 小狐丸は宵から絵本を受け取ると、ぱらぱらとめくっていく。絵本の内容は雲に混じって「わたがしのしま」という空に浮かぶ島があるという。そこからはわたがしが降ってきて、触ると「自分もわたがしになるので、気をつけよう」と締めくくられていた。
 なんとも言えない冗長な絵本だった。
「この本を持ってきたのは誰じゃ」
「かかさま」
「それでは、怒れんのう」
 宵のととさまである、もう一振りの小狐丸がしたのならば、異心の同位体として叱ることができた。だが、三日月宗近にはこの小狐丸であってさえ、どうしても弱くなってしまう。絵本に関する注意をしたら、黄藤の本丸において、繊細な性質で顕現した三日月はさぞ落ち込むだろう。
 小狐丸は傷ついた母の姿を、宵にも見せたくなかった。
「ちなみに、宵は『わたがしのしま』をどう思う」
「あったらおもしろい」
「……そうか」
 肝心の宵は、どうやら絵本の内容は虚偽であるとわかっているらしい。「たいへんだ」などと言うものだから、強く信じ切っていたのかと勘違いしてしまった。そうではないのならば、ただ無邪気に残酷に楽しめばよいと小狐丸は思う。
 宵は赤い瞳に絵本の内容を映しながら、言う。
「ととさまとかかさま。ににさまはてつにかえる。だけど、宵はなんにもない。いなくなる、だけだもの」
「……そうか」
 幼い面ばかり目に付くが、宵はどうやら自身の事情を周囲が理解している以上に承知しているらしい。
 いまだ初の、黄藤の本丸に顕現した小狐丸と三日月宗近の情報と鋼を掛けあわせて、人の手によって作られた刀剣男士未満。成長の可能性は残されているが、花として咲くか枯れて終わるかはわからない。
 それが、宵だ。
 望まれて誕生した、だが、望んで誕生したのかはわからない命だ。
 小狐丸は宵の頭に手を置く。触感は父譲りのもふっとした豊かな髪だが、それでも毛の一本ずつは細い。その点は母に似たのだろう。
 もう一度、小狐丸は絵本に目を落とす。
 空に浮かぶ島など、おそらくない。相手をわたがしにする存在など、なおさらだ。
 ただ、宵という存在しないはずのものが、いま確かに隣にあるというのならば。触れられるというのならば。
 小狐丸は絵本のことを笑い飛ばすこともできなくなってしまった。
 ありえないということが、ないのだから。




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    こぎみかとリクサラを主に、世界を大切にしつつ愛し合うカップリングを推しています。

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