白紫陽花本丸の三日月宗近は夜、抜け出した。
もう限界だった。隣室の小狐丸から向けられる視線が痛くていたくて心の臓を突き刺して、透明な血が溢れ出してしまった。それを吐き出すこともできずに飲み込み続けていたがもうできない。すでに透き通った血は喉の奥まで溜まってしまい、これ以上飲み込み続けると臓腑が破裂する。
抱えている悩みは誰にも相談できない。同じ刀派の三条のものたちにも、はじまりの一振りにも、主などは論外だ。不要な心配をかけてしまう。
三日月は本丸の結界の緩いところから身を乗り出して、存在不証明の流れに自身を委ねる。慣れた逃避行。時の流れなど何回も超えているが、そのたび綻びに足をとられて折れてきた。刀解されてきた。
流れに乗ってこれから自分はどこへ逝くのだろう。
折れてしまっても構わない。どうせ別の三日月宗近がうまくやるだろう。
そう言いながらもどの刀一振りも成功した試しなどないのに。
矛盾した考えに苛まれながら三日月は目を閉じた。
目を開けると天井が広がっていた。見慣れたものではない。だが、見知らぬものでもない。木の板が並べられている本丸によくある造りの天井だ。
首を横に向けると黄昏が目に入った。空は白から黄色、赤へと染まり果てていく。自分は、いつからここで眠っていたのだろう。
どうしてここにいるのだろう。
疑問はいくらも浮かぶが何一つ答えは出てこない。
身を起こす。遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。
「おや、起きたか」
のほほんとした聞き覚えのある声に目を向ければ、白い足袋。その上は白い狩衣。見慣れたかんばせだが、瞳は白い月を宿した薄青だ。紺から白へ流れ落ちる双葉の癖だけが元気な髪型の三日月宗近がいた。
三日月は言葉を失くす。
そこには、未来の自分がいた。
結いの目と至った自分がたどり着く終焉だというのに、目の前の三日月宗近は解ける様子もなくにこにこと笑いながら屈んで視線を合わしてくる。
目は、宵ではなく有明だ。
「三日月宗近。どうやらお前は何か悩み事があるらしいな。だから、ここへ迷い込んだ。もう少ししたら俺の狐の身支度が済むから話を聞いてやる。それまでに食事はいるか?」
狐。
その響きにびくりとする。ここにも、小狐丸はいるのだろうか。それとも違う狐を指しているのだろうか。
俯いてしまうと、白い三日月宗近はそれ以上の言葉を重ねずに立ち上がる。背を向けて障子に手を預けると一言だけ残す。
「お前の心の準備もできたら、この本丸の奥に来てくれ」
「待て。ここは本丸なのか?」
「ああ。本丸だとも」
背を向けられていたが、首だけ振り向かれた。にっこりと笑われる。
「俺と、あの狐だけの本丸だ」
そのまま三日月宗近は去っていく。呆然とした。
本丸は、主となる審神者がいてこそ本丸になる。審神者を守るための居城だからこそ本丸と呼ばれるのだ。それなのにここには白い三日月宗近と狐、だけだというのに本丸を名乗る。
つまりは、乗っ取ったのか。
随分と面倒な場所に辿りついてしまったと溜息一つが勝手にこぼれた。
身を起こした三日月が歩いた本丸は閑寂としていた。
庭には背丈の短長に差のある黒い百合が咲いていて、澄んだ池が佇んでいる。部屋は誰が掃除しているわけでもないだろうに埃一つ見受けられない。
感じるのは、霊力。
不意によぎる自分のものではないが知ってはいる気配。そういうものばかりに囲まれている。
廊下を歩き続けてそれ以上先のない奥の間に着く。閉じられた障子に手をかけて、あえて言葉を投げることもなく、開ける。
人は美しいものを美しいと口にして讃えるが、それはどれほどその「美しさ」を理解していたのだろうか。
立ち尽くす三日月の目の前にいるのはそういうものだった。
真白い髪に狐の耳を生やし、右の瞳は白いはずの部分が黒い。それでも紅の瞳孔は変わらず残っていて、目元には紅の化粧がされていた。手足は四つ足だが、わずかに獣の毛並みが流れに沿って生えているのが黒い羽織の下から見える。尻尾は九つあるのだろうか。
あぐらをかいた足の中には、先ほどの白い三日月宗近が飼い猫そのものとして身を預けながら収まっていた。
満たされている。
この二振りは刀剣男士の小狐丸と三日月宗近としては明らかに異形だが、一寸のずれもないままに噛み合って、互いを補完している。
完全を体現した、憎らしいくらいに睦まじい二振りだ。
立ち尽くす三日月に、傲岸に小狐丸は顎を動かす。座れということらしい。用意されていた、緑の座布団に正座する。
「さて、三日月宗近。お主は何か迷いがあって来たな」
先ほどの三日月宗近と同じことを言われる。見透かしているのでもなく、すでに定まったことだと断言された。
確かに悩みはある。それも小狐丸との不和という武器が抱く類いのものではなく、人の子が抱えるような些細で恥ずかしい悩みだ。
だけれどその悩みがある限り、三日月は白紫陽花の本丸に帰ることができない。
三日月宗近は小狐丸の髪の毛を指に絡めながら、言う。
「話して楽になるなら話せばいいさ。なに。俺たちのことは夢の存在だと思え」
「話して楽にならないとしたら」
「困るな」
小狐丸があっさりと言う。
「宗近と同じ三日月宗近が困ったままでいると、小狐丸には不都合なんじゃよ」
「まるで小狐丸には三日月宗近が大事な存在みたいだな」
そんなことはないのに。
もしそうであるとしたら、白紫陽花の本丸の小狐丸は自分にあの視線を向けないでいてくれたはずだ。他の刀剣男士には決して向けない、色も熱もないあの視線。思い出すだけで悲しくなる。
「大事な存在じゃ。そもそも、小狐丸は三日月宗近を救済するための刀なのじゃから」
「救済?」
「ああ。そのために、私たちは遅れて顕現した。三日月宗近の情報を飲み込んでから、三日月宗近が無茶や不道をする時に止めるために現世へ降りた。まあ、そう上手くいかない時ばかりじゃがな」
吐かれた息は己の不甲斐なさを責めているのか、三日月宗近が引き起こす身勝手を責めているのか。三日月にはわからない。
ただ、小狐丸に宗近と呼ばれた刀は楽しそうに笑う。
「そうだなあ。狐がいない本丸の俺は厄介なことばかりするな」
「お主もしたじゃろ」
言い合いながら顔を近づけあう。距離を置いて見ているだけだが、この二人は意味もなく距離が近いと思わずにいられなかった。いまだって小狐丸のあぐらの上に三日月が腰を落ち着けている。そうして髪をもてあそび、頬に手を伸ばす。
「それで、三日月宗近。お主は何を悩んでおるのじゃ?」
睦まじくしていても悩みを聞いてくれるまではわかった。
だが、この仲睦まじい二振りに、自分と小狐丸の関係を話して理解を得られるだろうか。自分の勘違いなどと一蹴されないだろうか。
躊躇してしまう。
「おそらく私についてじゃろ。その、お主の悩みの元である小狐丸にぶつけるつもりで言うが良い」
ほれ、と両腕を広げられる。その胸に宗近がしがみついた。まるで写真で見た、こあらを再現されているようで気が抜ける。
言うだけ言ってみよう。たとえ、無駄でも。
「小狐丸殿の視線が辛いんだ」
「求められすぎて?」
「だったらよかったのだがな。実際は、諦められているようなんだ」
最初はそうではなかった。先にいた自分に「同じ三条の太刀として頑張りましょう」と笑いあい、共に過ごす時もあった。
だけれど、いつからか、小狐丸からの距離が変わった。食事の時間もずれることが増えた。手合わせはもう二度としていない。
決定的だったのが、色も熱もない視線を向けられること。
無視であったらまだ救われた、敵意であったらどうにかできた。
だけれど、一度諦められると、小狐丸は二度と三日月に牙を向けてくれなくなった。
問い詰めることもできない、諦めの視線。
『貴方は私を相手にはしない』という視線。
そんなことないのに。
三日月は膝の上で拳を握った。
話を聞いていた宗近は首をかしげ、小狐丸は眉を寄せて考え込んでいる。
「いつから、そちらの小狐丸からその視線を向けられるようになったんだ?」
「大侵寇の時からだな」
はじまりの刀と共に本丸に戻ってきてから、小狐丸は変わった。そう告げると、宗近は小狐丸の耳元で囁く。
「嫉妬では?」
はっきりと聞こえた。
「じゃろうなあ。もとから、小狐丸は大侵寇で戦うことしかできなかったと嘆いている刀が多い。三日月宗近がはじまりの一振りに連れ戻されているので、一層悔恨は深いのじゃ。自分にその役目が与えられなかったからな。とはいえ、三日月宗近に当たるのは小狐丸にとって恥ずべきことじゃ」
またも、小狐丸は続けた。
小狐丸という刀は三日月宗近を守るために、止めるために現世の招きに応じたのだと。
本来喚ばれるとしたら、それは現存するとされる小さな姿の小狐丸のはずだというのに、わざわざ稲荷明神の逸話を受けた幻刀の大きい小狐丸として顕現した。
現実を打ち払い、神に乞うて地上に降りた。
その行為の代償は当然あるのだが、三日月宗近を守りたいという一心で、小狐丸は力よりも記憶を選んで刀剣男士になった。
それも全て三日月宗近が引き起こした、ある出来事に端を発しているのだという。その内容はまだ語られないが、自分は同胞である刀を折る以外にも何をしてきたのだろうと不安になってしまった。それもまた罪深いが。
「私からできる助言は……そうじゃな。しばらくここにいるがいい。そうして心の整理がついて、まだ小狐丸を好いているなら、正直に想いを告げよ。そうでないなら放っておけ。三日月宗近を守れぬ小狐丸にはじまりの一振りに対して嫉妬する資格などありはせん」
「狐は小狐丸に厳しいなあ」
「なんとでも」
笑いながら、宗近は小狐丸の手の甲に唇を寄せる。
一瞬たりとも欠かさずに触れていないと気が済まないのだろうか。
「なあ」
「ん?」
「俺の本丸の小狐丸殿は、まだ俺を好きでいてくれると思うか?」
みっともない縋り方をしてしまう。
自分のものではない小狐丸は目元をやわらげて、落ち着いた声音だが、確かに言ってくれた。
「三日月宗近を愛さぬ小狐丸などおらぬよ」
それは己がそうなのか、それとも小狐丸に共通することなのか。
ただ、小狐丸にとって三日月宗近は一本の棘のように常に意識してしまう存在だという。
それならば、それだけで十分だった。
三日月は笑う。
「ありがとう」
霧の晴れたその笑顔に、小狐丸も宗近も大きく頷いた。
その後、一宿してから三日月は白紫陽花の本丸へと帰っていた。
白い三日月宗近は小狐丸の腕の中にいながら、番の髪を弄びつつ考える。
小狐丸は帰ってきた三日月にまだ色も熱もない視線を向けるのだろうか。そうだったらあまりにも悲しい。
悲しいから、立ち去った三日月が不器用にそれでも懸命に小狐丸への想いを伝えてくれるように願うばかりだ。それを聞いた小狐丸が誤解をといて、許してくれるように祈るばかりだ。
自分だって、いま抱きしめてくれる漆羽の本丸の小狐丸がいてくれなければ、どうなっていたことか。
俯く。
すぐに、小狐丸が両腕で抱きしめてくれる。首筋に感じられる熱い息が愛おしい。首をそらすとぺろりと舐められた。
「みゅ」
「愛いのう」
「こんなになっても、可愛いか?」
色を失った自分の姿を鏡で見るたびに、随分とみすぼらしくなったなあとしみじみしてしまう。かろうじて色が残っているのは瞳と髪だけだ。
それを狐は愛おしいと言ってくれる。
「宗近が、頑張った証じゃからな」
抱きしめられる力が強くなる。何度も繰り返される「がんばった」。宗近にしてみれば結局失敗に終わってしまった結果だというのに、小狐丸は過程を大切にしてくれる。
だが、宗近も思うのだ。
もしも自分が未来を変えたいと願い、月の光すらない暗道を進んでいる時に、小狐丸という光がいてくれたら、きっと結果は違っていた。
でもその時の自分には小狐丸はいなかった。
無茶をして、刀としてすら解かれかかった時に、手を伸ばしてこの肉の器を留めてくれたのは、いま抱きしめてくれている小狐丸しかいない。
宗近を救うのはいつだって、小狐丸だ。