39.浸食

 初夏を迎えても青い桜が花々と咲いている本丸がある。決して散らない桜との縁を大切にするために、その本丸は青桜の本丸と呼ばれていた。
 灼熱、とまではいかないが、梅雨が明けたことにより、白々と頬を焦がす程度の太陽に照らされながら小竜景光は廊下を歩く。顕現したばかりの頃の白馬の王子が持つ気品は極になって以来、野趣が溢れるようになった。髪は乱れ、たくましい胸元をさらけ出す。いまは青い運動着姿であるために出陣衣装ほど極端ではないが、年頃の女性がいたならば目のやり場に困るだろう。
 小竜は青桜の本丸の文庫で本を借りようとした。しかし、目的の本はすでに先客が取っていったようだ。貸出記録を探って、どの刀剣男士が目当ての本を先に手にしているのかは判明した。
 必要なのは交渉だけだ。
 小竜は一室の前で立ち止まる。障子は開けられていて桐の文様に彩られた几帳が置かれていた。随分と洒落たことをすると、大般若長光ならば口笛を吹くところだろう。
 小竜は几帳越しに声をかける。
「入ってもいいかい?」
「ええ。どうぞ」
 聞き馴染みのある落ち着いた声に促されて、小竜は部屋に入った。室内では内番姿の小狐丸が、荷物を積んでいる。
「どうしましたか? 小竜景光」
「少し頼みたいことがあって来たんだけど。ここは随分と手狭な部屋じゃないか」
 小竜と大般若に与えられた一室とは趣も違えば広さも違う。その理由は、小狐丸が抱えている唐櫃だと予想がついた。部屋は雑然と散らかってはいないが、大きな唐櫃が二つ並んで置かれていて、それ以外にも文机の上には文と筆が並べられている。筆は乾いているので文をしたためていたわけではないだろう。
 小狐丸は小竜の指摘に頬を緩ませる。
「三日月の物が、随分と増えたのですよ」
「ああ。君は彼と同室だったっけ。もしかして、三日月の物というのは、それもかい?」
 小竜は言うと、小狐丸の髪をまとめている布を指さした。その布は普段ならば鮮やかな黄色だというのに、今日は夜更けの色をしている。
 小狐丸はまた満更でもない様子のまま、むしろ恥らいすら浮かべた顔で頷いた。
「はい。今日は三日月だけが出陣だから、と」
 言われた小竜は苦笑してしまう。
 青桜の本丸の月が、番である狐に執心しているというのは同室の相手からよく聞かされている。しかし、実際に目にすると相手に可愛らしい恋着をしているだけに限らない。自身の全てを相手に預けて、相手の全てを己のものにしようとする三日月宗近の執念が見える。
「なんだか、浸食されていそうだね」
「望むところですよ」
「あんまり相手に侵されていると、自分が失われていくこともあるんだよ?}
 自身の意思や考えをないがしろにして、相手の望みを忠実に叶えていくのは、自らの放棄だ。
 普段は他の刀の事情にあまり関わらない小竜だが、今回は考えるよりも先に言葉が口を出てしまった。ただのお節介であり、これ以上の心配も妨害もする気はないというのに、言葉は止まらない。
 言葉を止めたのは、小狐丸の笑顔だ。
「私は構いません。すでに失われている私の物語を現世で支えてくれていたのは、三日月です。あの方が望むのであれば、私は全てを差し上げましょう」
 献身とも奉仕とも違う。すでに小狐丸は三日月に大きな借りがあるようだった。
 小竜は肩をすくめて、本題に入ろうとする。
「おや」
 振り向くと、三日月が戻ってきていた。普段の繊細な面は変わらないが、夜の瞳に浮かぶ月が剣呑な色を湛えている。
「やあ。邪魔しているよ」
 三日月は頷くだけだ。すたすたと青い狩衣を揺らしながら、小狐丸の隣に重なりそうなほどの近さで寄り添った。
「用事はなんだ?」
「大したことではないよ。読みたかった本を、小狐丸が先に借りていたらしいから。それを譲ってもらえないかって、来ただけ」
「それは申し訳ありません。ですが、いまは部屋がこの状態ですので、本はもう少しだけお待ちください」
 小狐丸の言う通り、部屋の荷物は本来の場所から異なるところへの移動と整理をされている最中だ。小竜が探している本を一冊だけ見つけるのもまた手間だろう。
 今日は仕方ないと諦めて、小竜は立ち上がった。
「見つかったら、すぐに借りれるようにしてほしいな」
「はい。わかりました」
 それだけを言い残して、小竜は去っていった。
 廊下を歩き、自室に戻りながら、先ほどの三日月宗近を思い出す。普段はあまり関わりなどなく、大般若の旧い知り合い程度に捉えていた。
 だけれど、あれもまた随分とややこしい性格をしていそうだ。一度愛したものを手放せない重力を抱えている。
 それでも、小狐丸は喜んで三日月の手をつかんでいるのだろう。




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    こぎみかとリクサラを主に、世界を大切にしつつ愛し合うカップリングを推しています。

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