初夏を過ぎても、金木犀が仄かに薫る本丸であるために、その本丸は金木犀の本丸と呼ばれている。
日差しの陰りと晴天が入れ替わる季節の中、今日は快晴と呼べる日となった。植物も健やかに腕を伸ばし葉を茂らせ、恵みの水で喉を潤す。緑に染まり、繁茂する辺りは美景といえた。
それとは反対に、馬小屋は生物特有の匂いがこもり、馬当番になった肥前忠広と富田江は汗をぬぐいながら丁寧に作業する。
道場で手合わせをする快音も響いていた。今日は、姫鶴一文字と毛利籐四郎といった組み合わせだ。
どこもかしこも、命の息吹が繰り返されている。
それらの活力溢れる様子とは反対に、のんびりとしているところもある。すでに全ての値が限界値まで達している小狐丸と三日月宗近は内番をとうに免除されて、たまの出陣以外は好きに過ごすようになっていた。
いまは、小狐丸が正座をしている。肩をすくめて恐る恐るといった様子で、三日月に右手を差し出していた。
「まったく、割れた器を片付けようとして怪我するとはな」
いたたまれないほど丁寧に、呆れた声で、三日月は小狐丸に言った。言われた側はさらに縮こまる。小さな声で「面目ありません」と呟いた。謝られても気に留めないところから、三日月の豪胆な性質がうかがえた。
三日月は傍らに、救急箱を置きながら、小狐丸の指先に刺さっていた欠片をつまみとった。その上から容赦なく消毒液をふりかける。
痛みに強い刀剣男士ではあるが、小狐丸は身を固くして背筋を後ろに曲げかけた。動けないのは、三日月に手を捕まれているためだ。
障子の隙間から夏の初めの日差しが降り注ぐ。その光に照らされる三日月が美しいので、手当をされている小狐丸はじっと眺めてしまった。
この刀は、どの瞬間を切り取っても損なわれない。些細な仕草の一つひとつが絵となり、定まってしまう。それほど麗しい三日月宗近が己の恋刀であるということに、小狐丸の頬が緩みそうになる。
実際は、絆創膏で強く指先を結ばれて、また背をのけぞらせた。「ひにゃ」と悲鳴を上げなかったことを褒めてもらいたいとすら、思ってしまう。
「終わったぞ」
「ありがとうございます」
三日月の手ずからの治療を受けられる、というのは相当贅沢な立ち位置にいる。小狐丸は改めて自分の幸運を噛みしめながら、手当てされた指先を見た。
些細な傷だ。しかし、刀剣男士には治癒能力がない。どれだけ小さな、軽い傷であっても手入れ部屋で手を加えられなければ、傷は残り続ける。そうして、そのまま戦い続けると最後には折れてしまうのだ。
とはいえ、指先を怪我したなど数値にしたら損傷は一がいいところだろう。それくらいでは手入れ部屋には入れてもらえない。当分は不具合を我慢しながら、出陣するのかと、考えていると三日月に手を取られた。
まだ、虫は鳴かない。まれに鳥は鳴く。部屋は明かりを付けなくとも支障が無いため、少々薄暗かった。
小狐丸が三日月を見つめる。
三日月は小狐丸の絆創膏が貼られた指に、そっと、唇を寄せた。
「な、何を!? 三日月殿?」
密やかな動作に小狐丸の頬が赤くなる。
恋仲であるため、触れあうこともあるが、大抵は小狐丸から三日月に縋って頼って手を伸ばす。そうして三日月があはれを差し出してくれるのであって、三日月から触れてくることは滅多にない。
三日月は手を放すと、何事もなかったかのように言う。
「いや。先ほど、流れたあの血も。この傷を負った肌もお主の欠片かと思うと、つい触れたくなってしまった。それだけだ」
「でしたら、もっとどうぞ」
「もういい」
ばっさりと斬り捨てられる。
「私の欠片を好いてくれないのですか」
「図々しいな」
きっぱりと言われてしまった。
いつものことながら、美しく手厳しい愛しい相手に小狐丸は苦く笑ってしまう。ここで甘えてこられたら嬉しいのだが、そうであったら、自身の愛した三日月宗近らしくもない。
金木犀の本丸の三日月は、気高く、真っ直ぐと前を向いて、少しだけ恥ずかしがりなところがあるからよい。
小狐丸が三日月の唇が触れた指に反対の手を重ねていると、三日月は立ち上がる。救急箱を手に持っていた。
三日月は背中を小狐丸に向けたまま、立ち止まる。
「お主のほんの一欠片だけをいただくよりも、全部をもらった方が嬉しいのは当たり前だろう」
目を合わせないまま、少しだけ早口で、三日月は言い切った。
言われた小狐丸はといえば、内容を理解するのに少々時間がかかった。咀嚼し終えると喜びが湧き上がってくる。
「みか」
名前を呼ぼうとしたところで、音を立てて障子が閉じられた。残された小狐丸は何度も聞いたばかりの言葉を、頭の中で繰り返す。
小狐丸の全部をもらいたい。
「ふふ」
つい、笑ってしまう。障子が閉ざされた暗い部屋の中で、あまりない三日月からの睦み言を聞けたので、小狐丸の機嫌は上昇するばかりだ。
右手をかざす。人差し指に巻かれた白い絆創膏が、一際目立った。
32.欠片
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