【サンプル】かきくる恋に月を捜せば

 忘れません。貴方が初めて私に向かって無邪気に笑ってくれた一瞬を忘却することなど、できるわけがないのです。
 それは金木犀が絶えず咲く本丸でのこと。空には橙と薄紅の欠片が舞い散る春のことです。桜と金木犀という決して叶うことのない共演に口を開けて見蕩れていた私の横顔に、貴方は微笑みかけました。
 決して大仰な笑い方ではありませんでした。
 青い初の狩衣を優雅に着こなしながら、首を、ほんのすこうしだけ傾けて目元と口元を緩めてくれていたのです。細められていた宵の瞳に浮かぶ月に込められた慈しみの意味を私は一生違えません。
 貴方は花より私を見ていてくれた。
 そうして覚えたのは、安堵と優越でした。他の誰にも見せることのない情熱を込めて私をあはれんでくれた。
 そのことは空を舞う花びらと同じくらい私の心を浮き立たせました。
 ですがそれも長くは続きません。同じ本丸にいる一期一振や骨喰藤四郎を初めとする全ての刀に貴方は笑いかけます。あらゆる刀に優しさを向けるのです。自分だけが特別だという優越はすぐに砕けて土の上で枯れてしまった。
 三日月宗近とはそういう存在。常に全ての傍らに月はある。
 という小狐丸の切々哀歌とした訴え聞かされているのは鶴丸国永だった。
 内番姿の小狐丸は自身と三日月宗近が結ばれるのに一役買ってくれたという同じ本丸に恋刀がいるこの太刀にはどうしてか詮無きことをこぼすことができた。話し好きの聞き上手でもあり、小狐丸がどういう刀なのかを知っているのもある。
 同じく内番姿に鶴丸国永は三日月の本音と本性を多少でありながら知っている身であるため「はいはいまたか」と肩を叩いて「気にするな」と言ってやりたい思いをこらえながら小狐丸の嘆きを聞いていることを当の刀は全く知らない。
 ただ言うことは言いたいのか同じ内容の違う言葉を繰り返す。
「あの誇り高い三日月が番だと言い切るんだぜ? 随分お前に入れ込んでいると思うがなあ」
「そうでしょうか」
 鶴丸の本音を聞いても小狐丸はしょんもりとしたままで自慢の毛並みも垂れ下がっている。くいっと酒の入った腕を空にしていた。
 いま二振りがいるのは鶴丸の部屋になる。音が鳴る笛や巨大な着ぐるみなどといった驚きの一品が山ほど積まれた一角と、整頓された棚が不均衡に什器として並んでいるが部屋自体は清潔だった。桜の花弁が机に置かれているのも弥生らしい奇妙な優美さを漂わせている。
 鶴丸はあぐらをかきながら言う。
「あんまり弱気でいると三日月は怒るぞ」
「もうすでに怒られています」
 明確な怒りを向けられたことはないが、鶴丸や他の刀との酒合わせに誘われて出かけるたびにしょんもりと弱音を吐いていると知られると、そのたびに呆れの吐息をこぼされていた。小狐丸が三日月の心離れまで疑っているわけではないのだと承知しているのか、そこは責められないが「もう少し俺の番だと堂々としてろ」とは何度も言われている。
 ますます小狐丸が前傾姿勢になると「あーらら」といった顔をされた。
「にしても、どうしていまの君はこんなに自信がないのかね。昔はもっと」
「昔?」
「なんでもないさ」
「はあ」
 少し気にはなったが触れないでいたら平和でいられそうなのでそちらを選んでしまう。
「まあ三日月は自分の感情を表に出さない奴だからな。それでもお前はめったにないくらい愛されているよ。俺から見ても」
「その鶴丸は一期一振から愛されている自信はありますか?」
「ああ。いつだってめろめろだからな」
 古びた言い回しだが妙に様になっていた。
「どちらが」
 小狐丸は問うが、鶴丸はあえて返答するまで間を作る。盆の上に置いていた酒を腕に注いで、飲み干してから、鶴丸はあくどい笑みを浮かべて言った。
「俺に決まってるだろ」
「自分だけでは、などと不安になることはないのですか」
 己の心細さを笑われた気になって問いを重ねる。鶴丸は腕に二度目の口をつけて、空にしてからまた堂々と言い放つ。
「それでも信じ続けるし、愛してる」
 胸を張ることなく、すでに弟たちと共に夢の世界へ旅立っている恋刀を見守る瞳でいる鶴丸が小狐丸はうらやましい。
 自分だって三日月を先に寝かしつけて何を鶴丸相手に悶々としているのやら。部屋を出る間際に向けられた、寂しげな瞳はいまも忘れられない。不安に身を焦がすくらいならば正直に尋ねれば三日月の好意ははっきりとするだろうし、自分も安心できる。
 わかっているのにできない。最初の頃の三日月の態度と、自分を見てるというのにどこか遠くを見つめている時もあるため、三日月が己を愛してくれているのかどうか信じ切れないでいた。
 たとえわがままだとしても。
「鶴丸はいいですね」
「いつだって大切なのは相手を信じることだ。そうでなきゃ驚かし甲斐もない」
 小狐丸の返事は湿った長い息と一緒に消えていった。
 悩みは解決しないまま時は過ぎていく。
 酒は空になり、腕は重なる。
 そうして小狐丸は「眠い」とだけ言った鶴丸に追い出されてとぼとぼと部屋に戻っていった。
 障子を開ければ三日月は仰向けになって穏やかに眠っている。小狐丸は乱れたかけ布団を直しながら、顔を横から寄せた。
「三日月殿」
 貴方が私にだけ優しかったら、至上の喜びを得られるだろうけれどもそれでは貴方ではないことも理解している。



 小狐丸と鶴丸が二人で酒を飲んでから三日後のことだ。
 三日月宗近は自室で読んでいた本から顔を上げた。時計を見ると短針はすでに日付を超える手前まで来ていた。
 まったく、と思いながら本を閉じる。敷かれた布団の上で正座をする。
 最近の小狐丸はよく吞み歩いている。酒を好んではいないが強いのはあり、様々な刀にこれまでも誘われてきたが以前は断っていた。
 『三日月殿が待っておりますゆえ』などと自身を引き合いにしながら。
 だが、最近は三日月が眠るまで部屋に帰ってこない。朝も小狐丸が先に起きるので、ゆっっくりと話す機会が減少している。
 少し前までは三日月が部屋で本を開いたり書をしたためているたびに「何をしているのですか」と尋ねてきていた。もしくは黙って寄りかからせてくれていた。それなのにいまは着替えや眠る時間を共にするこの部屋に三日月がいる間はいない。
 それらの事情があるために三日月の機嫌は少々よろしくなかった。
 布団の上で正座を続けたまま覚悟を決める。今日という今日は一言くらい苦言を呈してやろう。何か不満があるのならば聞いてやる。不平があるというのならなだめてやる。
 独り寝は寂しいのだと直接は言えないところが、金木犀の本丸にある三日月の高潔であり意地張りなところなのだが、肝心の金木犀の本丸にある小狐丸はそういうところを気遣えない。物事を正面から受け取りすぎるきらいがあった。
 手段は乱暴とはいえ三日月がそこまで歩み寄り、自ら退くのは珍しい。それも相手が小狐丸であるためだ。可愛い弟であり大切な番だから尊重したい。たとえ相手が自分を放っておいているにしてもそれには理由があるのだろう。
 だがその理由が納得いかなかったら一発食らわしてやろうとも三日月は決めていた。
 待つ。
 時計の針がたく、と鳴った後にまたちっく、たく。ちっく、たくと相槌を繰り返す。静寂の中で耳をすましていると足音が近づいてきた。それは三日月と小狐丸の部屋を目指して進んでいるため、どうやら帰ってくるらしい。
 それでも三日月は微動だにしない。かたり、と障子が開かれる。
「待たせたな」
 最初に顔を見せたのは鶴丸だった。その後に大般若長光と、支えられる小狐丸がいた。
「はい。お届け物」
「重かっただろう。すまないな」
 三日月は立ち上がると小狐丸を受け取った。自分よりも上背も体重もあるので、重い。それでも離さないでいるが、もたれかかる小狐丸は胡乱な様子だった。
「みかづきどの」
「随分と吞んだな」
「ああ。そこまで酔わすつもりも、酔うだろうとも思っていなかったんだけどね。今日は珍しく小狐丸が酒に吞まれているくらいには、酔ったよ」
 大般若が軽やかに言った。
 そこまでいく前に止めればよいだろうに小狐丸は想定を上回る速さで吞んでいたのだろうか。
 三日月が考えていると小狐丸は不意に、ゆうらりと立ち上がる。
 抱きしめられた。
 狭くなった視界の端に、口笛を吹く大般若と目をしばたかせる鶴丸が見えた。どうやら小狐丸がただ酔っ払っていると思われているようだが、違う。
 三日月は違和感を覚えていた。
「みかづき、どの」
 小狐丸は舌足らずな発声を繰り返すだけだった。とりあえずは安心させようと広い背中を何度も叩く。
「あい。俺はここにいるぞ」
「じゃあ俺たちは戻るからな」
「あやしは頼んだよ」
 出ていく鶴丸と大般若に対し、首を縦に振ることによって三日月は二振りを見送った。部屋には二人きりになる。まだ三日月は小狐丸にぎゅうぎゅうと抱きしめられている。
 小狐丸はとろんとした目で三日月を見上げながら問うてきた。
「三日月殿は、本当に私を憐れと思ってくれていますか?」
「馬鹿を言うな」
 何を今更という思いを込めて口にする。
 金木犀の本丸の三日月は大層恥ずかしがりな気性もあるために、素直に「愛している」などと言えない性格をしていなかった。そこまで小狐丸を甘やかすつもりもない。
 そもそも俺は怒っているのだ。
 三日月が小狐丸を突き飛ばそうかと考えていると目の前の白い毛並みはしょんもりと垂れ下がった。明らかに落ち込んでいる。
 三日月は座り、小狐丸も座らせてから自身に寄りかからせる。
 これではいつもと反対なのだが今日ばかりは仕方がない。本格的に小狐丸がよろしくない狐になっている。
 三日月がよしよしと撫でると小狐丸がすり寄ってきた。
 ますますいつもと様子が異なっている。違和感を飛び越えた、名状しがたい奇妙さに襟をつかんで揺らしたい気分だ。目を覚ませと。お前は何を見ているのだと問いかけたい。
 その感情をこらえて三日月は小狐丸の背中を赤子にするように叩いていた。込められた力は強いが何度も、何度もとんばんと叩く。
 だから、小狐丸の目の色が変わったことに気づかない。



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