【プロローグ】
星の数ほどある本丸の一つに、夏であっても冬であっても青い桜が舞い散るため、青桜という呼び名をつけられた本丸がある。
青桜の本丸の審神者は高い霊力を持っているが故か喋れなかった。その主に集った刀剣男士たちは、主の声なき声を聞き取りながら、穏やかに刀剣男士としての生を送っている。
その青桜の本丸に属する小狐丸は墨俣で拾われた。
まだ、短刀が修行に旅立つことも解放されていない頃であるため、観測されてから早い時期に拾われたのだろう。他の刀剣男士達と一緒に、本丸の成長と共に、大切に大切に鍛えられてきた。
小狐丸を拾った言葉の喋れない審神者も距離を保って慕われることが心地よいのか、一期一振の次に小狐丸を近侍にすることが多かった。
そして、ここからは小狐丸が拾われて一年目の秋の話になる。
珍しく、近侍を何度も交代させている審神者は、小狐丸を近侍にしたときに殺風景な部屋の端に座りながら「伝えたいことがある」と何かを書き始めた。
紙に書かれた二文字は。
「給料、ですか?」
時の政府から定められた給金や福利厚生以外に、審神者は戦いが終わったら刀剣男士たちを好きにねぎらってよいという通達がきたのだと、喋れない審神者は字で伝える。
小狐丸にとって欲しくて、どうしようもなく欲しくて狂いそうだから再び現世に現れるほど求めている価値のあるものは一つしかない。それさえ手に入るのならば他の収入など一つもいらなかった。それにこの戦いが終わったら自分は物語の奥である狐の界に帰るのだから、余分なものは手にしても無意味でしかない。
だけれど、主が提示した給料の内容は魅力的だった。
小狐丸が千年ものあいだ欲して、だけれど境界の存在故に手に入らなかったものを、この手の中に包むことができる。その可能性が生まれた。
審神者はまた尋ねる。小狐丸は、この給料で何を手にするのか。
「でしたら、私は」
私は、共にあれたらいい。
未だ会うことの叶わない三日月宗近と、そして。
【狐の来訪】
夢の中にいる。小狐丸は眠りに落ちながらも、いま自分は己の夢の中にいると理解していた。
その夢の中である光のない闇が広がる世界の中心には一匹の狐がいた。小狐丸の三分の一ほどしかない大きさだが、鋭い瞳で見つめられて、無言で告げられる。
だが、言いたいことは夢を見ている小狐丸の耳には聞こえなかった。違う。夢の世界は狐の界だ。人の世にいる小狐丸には届かないだけだ。それに憐憫を覚えた小狐丸は狐に触れようとした。だがするりと逃げられる。
目を、覚ました。
唐突な目覚めに、界を行き来した衝撃に多少の目眩を覚えたが、腕の中にある温もりがふんわりと心を安らかにさせてくれる。他の誰にも見せなどしないほにゃりと甘えきった表情で小狐丸を現世に留めてくれるのは、三日月宗近だ。
小狐丸が拾われてから、しばらくしてようやく青桜の本丸に鍛刀という形で喚ばれてくれた。
三日月宗近は千年前から小狐丸と縁が続いている愛しき伴侶であり、また番である。
名前を呼べば、ううんとうなったあとに「こぎつねぇ……」と甘えた声で擦りよってくれる。その温もりが愛おしくて険しかった顔も綻ばせずにはいられない。
小狐丸は自分の夜着をつかむ絡む手を丁寧に外していき、起こさないように気をつけながら布団を出て行く。名残惜しくはあるが夢の内容も気になった。
界を渡ろうとした白い狐の目は、何色だっただろう。
小狐丸は白い夜着を脱いでいき、内番衣装に着替える。そうしていまだ枕に顔をうずめて眠っている三日月の額に口づけを落としてからささやきかけた。
「いってきますね。起きたら、一緒に朝餉をとりましょう」
また「ふにゃ」と答えにならない声が帰ってくることが愛しかった。
秋の凜とした日差しを浴びながら、小狐丸は主である審神者の部屋へ向かう。襖越しに声をかけるが返事はなかった。では、と向かうのは鍛刀部屋だ。思った通り、日課である鍛刀をする手はずを整えているところだった。
「ぬしさま」
声をかければ顔の見えない、喋れない審神者に振り向かれた。頷かれる。
再び、今朝の夢を思い出す。もしかしたら狐の遣いが小狐丸を励起せよと伝えたかったのかもしれない。だとしたら自分にできることはある。
「此度の鍛刀ではこの小狐丸をご所望ですか?」
来てくれたら嬉しい、と声を出さずに答えられる。どうしてかこの青い桜が常に咲き誇る本丸では小狐丸を鍛刀できたことがない。珍しく四時間が出ても、天下五剣ばかりだ。以前は三日月を二体ほど喚んでしまったこともあり、小狐丸の番であり内気で偏愛気質の強い三日月はむくれながら習合させられたこともあった。三日月は習合させられるのも連結も好まないが、その理由は「小狐丸に愛されるのは純粋な俺だけであってもらいたい」という、意地らしいものだった。その甘い愚痴を聞かされた夜は、ひどく甘やかしたことをまだ覚えている。
愛らしい番の思い出に浸りそうになるが、我を取り戻した小狐丸は自分の髪の獣状の部分から、一本抜いた。ここは霊気を察することもできる、自慢の髪の要の部分でもある。
「気休め程度ですが、こちらと共に鍛刀してください。私が来るかもしれませんよ」
そうして小狐丸は審神者が投じる資材と依頼札と共に、自分の髪を火にくべた。
普段は即座に鍛刀にかかる時間を告げる札が、回転しだす。勢いよくからからからと回る札に小狐丸と審神者が驚いていると、札はやがて落ち着いた。
九十九。
突如現れた未知の数字に顔を見合わせてから、不意に、小狐丸は倒れた。
衝撃が体の中を縦横無尽に駆け巡る。心臓は強く脈を打ち、手も激しく震えてしまう。己の内部で強くうごめく何かがある。
遠のく意識の中で着々と時を減らしていく札を見つめていた。
ここに、一体何の刀が喚ばれるというのだろうか。
小狐丸が目を覚ますと布団の上にいた。部屋の中心にある柔らかな白い布に身を預けていると、手が温かいことに気付く。視線を動かすと眉を寄せて心配そうな表情で見つめている青い狩衣姿の三日月がいた。
「わた、しは」
「二度寝をするくらいなら早起きなどするな」
軽い言葉の外に込められた心配に、申し訳なさが募る。言われた通りだ。早起きなど無理してするものではない。
だが、倒れた原因は早い起床などではないはずだ。意識が落ちる瞬間に全身に走った衝撃が、予期せぬまれびとの来訪を告げている。特に、小狐丸と深い縁があるものが本丸に来る。それはいまだ胎が熱いことも証明していた。
小狐丸は三日月へ本丸に異常はないか、九十九時間の札はどうなったかを尋ねる。
三日月の答えは簡単なものだった。
「いまはまだおかしなところはない。札の時間は、増減を繰り返している。まるで時の流れが違うところから何かがやってくるようだ」
「そうでしょうね」
「小狐丸。何を知っているんだ」
穏やかに問いかけられて答えに迷う。正解はまだわからない。理解できるのは、札が零を刻んだ瞬間に現れ出でるものは小狐丸と関わりあるものだ。
そう。たとえば。
夢に出た白い狐。
あの狐の目の色は何色をしていただろう。もしも、青と赤が混じった夜明けの色をしているのならば、その存在が示しているものははっきりする。
「三日月。私はもう大丈夫ですから」
「だが」
心配だと言い募る番の頭を一撫でして、頬に手を添える。すりと身を寄せてくる熱は愛おしい。
「これから鍛刀される刀は、もしかすると」
その続きを小狐丸は考える。自身の体の不調と夢の中で狐による告げ。鍛刀の際に自分の情報を与えたということは、新しく鍛刀される刀にも自分の縁は繋がるはずだ。
小狐丸に由来する刀だが、三条ではないものがくるのだとしたら。
三日月を見つめる。奇跡の配置で収められた小さく華麗なかんばせと男性にしてはしっかりとしているが子を宿すには細い体で造られた。
ぴん、と閃くものはある。
だがそれはない。来られるはずがない。
小狐丸の本来の魂は狐の領域で安置されている。三日月とは違う場所にある。
「な、なんだこれは!?」
鍛刀部屋から声が聞こえた。最近よく近侍を務めるのは水心子正秀だ。
急に胎から熱さがじゅっとかき消えた小狐丸は、内番姿のまま鍛刀部屋に走る。三日月も静かな足取りで続いてくれるが、それを喜ぶよりも先に徐々に強まる神気から、まろうどの正体を確信してしまう。
来てしまった。
彼が、来てしまった。
「三日月。これから目にするものを、貴方だけは決して拒まないでください」
もしもそうされたらあの魂は壊れる。
小狐丸の真剣さが伝わったのか、三日月は一言だけ「あい」と答えた。
足音も荒く廊下の角を三つ曲がり、立ち止まる。木の扉に手をかけて一気に開くと、鍛刀部屋に踏み入った。
白い桜舞う舞うその中心にいて、徐々に姿を現すのは。
一振りの、小さな太刀。
目の色はつむられていていまだ定かではない。
その太刀の外見で最初に目立つのは首筋半ばで切られた白い髪。強く癖がついているが、特徴が顕著なのは三角の獣状の形の部分だろう。小狐丸も知っている、狐にとって神気を感じるために欠かせない箇所だ。肌はほんのりといとけなさを残して色づいているが、全体的に細身だ。身につけている着物は白から赤へ移り変わる狩衣と、うっすらと灰色をした袴だった。腰には刀を提げているが見たことのない刀だろう。この本丸では、一振りもこの刀の名前を当てられないはずだ。
太刀の目が、かっと、開かれる。
その色を見た小狐丸の喉から、ぐっと声が洩れた。
このような形で、己の願いが叶うなど予想したことは一度もない。
いつかの未来に起きるはずだったというのに。
太刀は、青い瞳に僅かに、とても僅かに滲む赤い月の欠片を見開きながら優雅に頭を下げた。
「狐の遣いとして現世に参上いたしました。無銘の刀、名は暁天と申します」
「小狐丸。この、刀は」
戸惑う三日月の問いにはっきりと答えることはできない。太刀の、暁天という存在が全ての返答になる。それ以外の説明はいまは無粋だ。
暁天は下げていた頭を上げると、三日月を真っ直ぐに、射貫く鋭さで見つめて。ゆっくりと微笑んだ。
「初めまして。お会いしとうございました……母上」
審神者の顔が言っている。
これは一体なんなんだろう。
だが、小狐丸は何も言えない。