この世の終わりは顕現したときからすでに決まっていた。
正確には、この三日月宗近の個体の終わり、と言い換えるべきかもしれない。たとえ三日月がいなくなろうとも、おそらく、世界は、続くのだ。寂しくとも、嘆かわしくとも、たった一振りいなくなるだけで滅びるほど世界は脆弱ではない。
だけれど、三日月宗近にとって自身が無くなるということは強い恐怖をもたらす事象であった。
窓の外を見る。
花火が空に昇り、一瞬だけ暗黒を光で染め上げた。だが、すぐに消えてしまう。世界はまた闇に包まれた。三日月は窓硝子にほのかに浮かぶ自身へ、そっと手を伸ばした。
自分は、三日月宗近はつい先日の「百鬼夜行」で拾われた刀であり、当然ながら未だ戦場に出たことはない。これから出陣する機会があるのかも不明だ。三日月を拾った灰葛の本丸にはすでに極に至り、鍛え上げられた三日月宗近がいる。
三日月は遠くから三日月の姿を見かけただけで、言葉も交わしていないが、気品に溢れた己にすでに気圧されていた。あの刀がいるのなら、刀解されてもおかしくない。もし存在が許されたとしてても、習合のための一振りでしかないはずだ。
足下から染み入るように虚無が広がっていく。夏だというのに、指先は冷たい。
どうして、主は自身を目覚めさせたのだろう。
すでに起きてしまったことに対する恨みはない。ただ、疑問だけがあった。
しばらく窓に触れたまま、立ち止まっていると、帰還してきた部隊の声が聞こえてきた。つい、息を浅くしてしまう。
自分という存在はどの刀にも歓迎されないような気がするのだ。理由などわからないが。
じり、じりと摺るようにして廊下を移動していると、階段を上る音が聞こえてきた。そのまま前に進む。
どの刀とも目を合わせたくなかった。
「三日月殿」
急に足が動かなくなる。呼吸はかすれたものになり、思考は急くばかりで何も有益な判断をしてくれない。後ろから声の主が近づいてきて、三日月に触れない程度に覆い被さってくる。
わずかに振り向いた先には、小狐丸がいた。
極、ではない。まだ顕現したての初の小狐丸だ。
花火はまた、空へ上がり、三日月と小狐丸の横顔を赤く照らした。
「こちらにいらっしゃったのですか」
「ああ。花火が、よく見えるぞ」
言葉の端を震わさないように努力しても、見透かすように、目を細められる。
いままでろくに見てもいなかったというのに、何を言う。
口に出さずとも視線で言われた気がした。三日月は顔を背ける。
いま、巨大な影のように後ろに立っている小狐丸も三日月と同じく百鬼夜行で形を成した小狐丸だ。同じくこの本丸では極の小狐丸がいるはずだというのに、戦場に出してもらえたようだ。羨ましいとは思わないが、待遇の違いは気になってしまう。
ただ、どの刀にも、主にも打ち明けられることではなかった。
三日月は一目見たときから、いま背にいる小狐丸が苦手だった。
怖い。
視界をかすめるだけで、胸が一杯になる。気を抜くと、すぐにでも食べられてしまうのでないか。三日月は小狐丸の腹の中に収まっている自分を想像してしまう。
だから、三日月は小狐丸から目を逸らす。小狐丸は三日月を見つめてくる。
振り払うようにして、三日月は廊下から自室まで戻ろうとするが、その前に小狐丸に抱きすくめられた。後ろから抱え込まれると逃げられない。
硝子に映った小狐丸と目が合う。
「三日月殿はまだ、血を知らないのですか?」
唐突な問いであったが、小狐丸が何を聞きたいのかはわかった。三日月は恥じらいを隠さずに笑う。
「ああ。戦場にはまだ出陣していない。あとは……刀であったころも、刀として使われたことはないからな」
数多の主を転々としながらも、一度も刀身を血で濡らすことはなかった無垢な刀が、自分だ。
多数ある説の一つではあるが、灰葛の本丸で顕現した三日月宗近は自身は血を知らないと信じていた。小狐丸に打ち明けてしまったのも、まるでまだ破瓜を迎えていないと告白するようで、いたたまれない。
うつむき、篭手に包まれた黒い指先を遭わせる。小狐丸は一層、距離を詰めて笑いかけてきた。
「貴方は本当に、純真なのですね。それは大変都合がよい」
三日月は首を傾ける。小狐丸と初めて目を合わせた。大きな口が三日月を食べるように開かれる。
「私は先ほど出陣してきました。想像していたよりも、戦とは血がたぎるものなのですね」
「そうか、それは」
うらやましい。
大変だ。
怖いな。
続く言葉はいくつも浮かぶが、全て泡になって消えてしまう。深紅の瞳に見据えられて、ぷつりぷつりと弾けてしまった。
三日月は沈黙する。小狐丸は見つめてくる。
いままで覆い被さっていた、重圧の影が取り払われた。
「三日月殿」
「ん?」
「もし、貴方にも出陣の命が下されたら、戦に出る前に私を斬ってください」
言葉が終わると同時に、腰に提げている「三日月宗近」に手を重ねられる。肉の器とは異なる、自身の核となる刀に振れられて、三日月の身体がわずかに跳ねた。他の存在に触れられるのは初めてで、また他の刀も本来ならば触れることなど考えもしない。刀剣男士が持つ己の刀とは、乙女だけが持ちうる純潔に近いものだ。
大切な相手でさえ触れさせない。特別な相手に、ようやく気を許すことができる。
だというのに、小狐丸は何も言わずに一線を越えて触れてきた。三日月に怒られても、文句を言える筋合いなどないというほど無礼な振る舞いをされたというのに、三日月は何も言えなかった。
ただ、心の臓がどく、どくと早く脈打つ。頭を回る血流がうるさい。
小狐丸はまた三日月の柄を指先で、ひっかくようにして撫でる。自身の身体が愛撫されているようで、こそばゆかった。
「貴方の刀身を汚す血は、最初は私でありたいのです」
「ばかなことを、言うな」
「愚かではあっても馬鹿ではありません。いいじゃないですか。同じ三条宗近を父とする刀のですから」
「仲間を斬ることができるわけないだろう」
振り絞って言うことができたのは、社交辞令じみた言い訳だった。
小狐丸のことをまだ、仲間などと思ってもいないというのに。ただ、斬ってくれと縋られたときに覚えた、甘い痺れが怖かった。実際にこの鋼で小狐丸の血を吸いかねない。
その味を知ってしまったら、きっと己は小狐丸から離れられなくなる。
「仲間、ですか」
三日月はこくりと頷いた。仲間、という触れそうで触れられない距離で留めておきたかった。
だけれども、小狐丸は三日月の顎をつかむと強引に唇で触れてきた。三日月の、唇の端の産毛に柔らかな粘膜が重なる。
決して、口付けられたわけではない。だからこそ、拒むことも浮かばなかった。
「よくお考えください。私の行為の意味を。ただ、貴方の出した答えが何であれ……私はきっと、貴方の純潔をいただきます」
小狐丸は背を向ける。一歩踏みだし、二歩進み、もう三日月には振り向かない。
三日月は崩れ落ちそうになる膝を、窓を支えにして必死にこらえた。かり、と硝子をかく感触がする。
心臓がばくばくする。三条の太刀の兄弟として、彼の刀のことを意識はしていた。だけれども、大人しそうでありながらも全てを剥くような鋭い目を向けられるとは、思いもしなかった。
小狐丸が触れた箇所を、指先でなぞる。
いつかきっと、この世も終わる。
世界の終わりの始まりは、きっと、小狐丸の血で俺が染まる時だ。
三日月は目を閉じる。
また、花火の上がる音がした。
この世の終わりに咲く花
-
URLをコピーしました!
-
URLをコピーしました!
