なにかがおかしい、と気付いた。
春の芽吹きを感じられる季節になったために、花弁が一層色を増す青い桜の本丸にて小狐丸は初の出陣姿のまま、腕を組んで悩んでいた。
花粉症に悩んでいるわけでも、理由のない昂揚を感じているわけでもない。
考えているのは番である三日月宗近のことだ。
いつもは一日の間に一時程度しか離れることのない月が、昨日から大変よそよそしい。今朝も、先に起きた小狐丸が三日月を起こそうと布団越しに触れたら、まるで電流が走ったかのように飛び起きて距離を作った。
その時の三日月の熟れた林檎の頬が忘れられない。愕然とした表情も、鮮明に記憶に残っている。
いつも通り、今日の三日月は内番も出陣もないはずなのだが、小狐丸を避けるようにどこかへ行ってしまった。その後の消息は知れない。
こんなことは初めてだ。
いつだって、自分の隣には三日月がいたというのに。
小狐丸は苦虫を噛み潰した顔で歩く。まさか、嫌われてまではいないだろう。不安ではあるが、距離を置きたいのならばいまは三日月の意思を尊重すべきだ。わかっている。わかっているのだが、常に右隣にあった温もりが感じられないのは想像以上に堪えた。
「これが、倦怠期というものか……?」
思考が飛躍してしまう。
一緒にいることに飽きた、疲れたなどの感情を覚えて、三日月は離れたのだろうか。それもまた違う気がする。
触れようとするだけで大仰に反応するのだ。
ぐるぐると本丸を歩いていると、不意に小狐丸は広間の近くまで来たことに気付いた。開いている障子から、広間をのぞき込むと、にっかり青江が秋田藤四郎、前田藤四郎そして平野藤四郎に囲まれているところだった。
「おや。小狐丸さん」
「こんにちは、にっかり青江。何をなさっているのです?」
広間に入って三振りのところまで近づいていく。青江は手遊びを教えているようだった。本丸には多種多様な遊具があるが、昔から伝わる手を使って季節を表現するということは、中々奥深いことのようだった。
「小狐丸様、三日月様はいらっしゃらないのですか?」
秋田に尋ねられる。小狐丸は引きつった笑みしか返せなかった。
共にいないだけで不思議がられるほど、小狐丸と三日月は常に一緒にいたのだ。過去形なのが一層辛い。
平野は事情があると察したのか、追求をせずに再びにっかりに向き合う。
小狐丸もしばらくの間、三振りとの手遊びに付き合った。いつもの狐を作り、蟹を模した時にはつい「食べたいですね……」としんみりしてしまった。
そうして、しばらく。
「あの」
平野に後ろを指さされる。
振り向くと、障子から顔を覗かせている三日月がいた。じっとりとした、湿った瞳で見つめられる。
だが、小狐丸が立ち上がり、近づこうとするとまた三日月はてってと走り去ってしまった。またも、呆然とするしかできない。
「どうしたんだい?」
「それが、私にもさっぱりわかりませぬ」
「三日月さんがおかしいのはいつものことだけど、いつもに増してだったね」
さらりとひどいことを言われたが、いまの小狐丸は青江の台詞を否定できなかった。
三日月は自身の感情を内に秘めたまま拗らせるので、たまに挙動がおかしなことになる。もしかしたら、今回も何かしらの理由があるのだろう。
「あんまり追い詰めたら、破裂するよ。三日月さんは」
「そうですね。でも、行きます」
小狐丸は少々頭を冷やしてくれた三振りに礼を言って、三日月の後を追うことにした。廊下に出ると、まだ少し先で三日月が初の出陣姿でてぽてぽ歩いている。足音をひそめて、ゆっくりと近づく。
そっと、背中に触れた。
「三日月」
「ひゃあ!」
手が、止まる。
三日月は勢いよく振り向いて、またも顔を熟れすぎて売れなくなりそうな苺ほど真っ赤にしながら、小狐丸をにらみつけている。
目元には涙が溜まっていた。
小狐丸の困惑は深くなる。
だって、先ほどの三日月が上げた声は。
決して、いやだ、といったものではなく。
むしろ、いい時に、出す声だ。
三日月は自身を抱きしめながら、かたかたと震えている。何度も「なんで」「どうして」と繰り返していた。
小狐丸は口の中に溜まった唾液を飲み干す。ごくりと呑み込むと、覚悟は決まった。
「失礼しますよ」
そうして、三日月を抱き上げる。普段よりも強引な抱擁をしたまま、誰もいない道場に三日月ごと転がり込んだ。
いまも腕の中の三日月はびくりびくり、陸に打ち上げられた魚のように震えている。感じられる吐息は甘くて熱い。
「三日月」
もう一度名前を呼ぶと、ふるふると首を横に振られる。小さな声で「はなしてぇ……」と哀願された。
「三日月」
「だ、めだ……。たのむから……ふれにゃあでぇ……」
「どうしたのですか、三日月。きもち、よいのでしょう?」
確信している小狐丸の問いに三日月は頷いた。こくこくと首を動かす様子は大変愛らしい。
「きの、から。おぬしに、触れられると。それだけで、極まってしまって……」
着物は汚れていないが、三日月の肌は汗ばんでいてところどころが朱に染まっている。どれほど、狂おしい快楽に溺れていたのだろう。気付かなかった自身の不徳に腹が立つ。
「一緒に、いたいのに。すぐ、きもちよくなる、から……だから……」
「とりあえず、手入れ部屋に行きましょうね。私がぽんぽんしてあげますから」
何か、おかしなことがあったら手入れ部屋は常識だ。
小狐丸はすでに腰砕けになっている三日月を抱え上げて、手入れ部屋まで歩いていく。その間も、三日月からは絶えず震えを感じられて、とろけた声が上がるので、大変だった。
理性が試されている。
だけれども、最果てまでを極めるのはこんな謎の現象によるものではなくて、自分の手であってもらいたから小狐丸は我慢した。
「ん……」
我慢しているが、心臓はばくばくだ。
61.最果て
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