小狐丸に好意と愛情の違いを教えてくれた人がいる。
時の皇に献上され、小狐丸は大切に奉じられながら自身を乞うた帝を主と仰いでいた。
恋しき人の影を追いながら、もう一人の中宮を慈しむ主を傍らで見守るのは小狐丸にとっては義務にあたる。とはいえど、彼の主が幸福であってもらいたいとは切に願っていた。優しく、それでいて不器用な主だから、どうにも誤解されやすい側面がある。
「小狐丸」
珍しく一人きりで閨にいる時に、主は傍に控える小狐丸に呼びかけてきた。落ち着いた声を聞く度に、相手に通じる言葉で返答できないことをいつだって悔やんでしまう。小狐丸だって、叶うのならば主と話をしたかった。
だけれど、神気をまとう刀とはいえ、小狐丸はものでしかない。言葉を発することは叶わない。
せめてもの献身として、小狐丸は主の声に耳を傾ける。
「また、私は失敗してしまったようだ。彰子に哀しい顔をさせてしまったよ。どうにも、不器用でいけないね」
自身に伝える、胸の内を口にした相手に伝えたらよいのに、と小狐丸は思ってしまう。主はかつての愛しき人に対しては素直だったが、今度の中宮である彰子にはどうにもこわごわと話しかけてしまう。その距離感こそが、彰子を悲しませるということにはまだ気付いていない。
「どうして、私が帝になど選ばれたのだろうね。天命なのは承知しているが、どうにもその天が、なにかしらの失敗を犯したようにしか思えない。……などと言ったら、君は怒ってくれるのだろう」
鞘を撫でられる。その手つきの丁寧さに主のいたわりが伝わってきた。
「頼むよ、小狐丸。無力な私では守りきれない愛しき民たちを、君が守ってくれ。そのために三条宗近に打たせた刀。護国鎮守のための、宝刀。稲荷の神の加護を受けし、小狐丸なんだから」
そうと言われてしまえば、小狐丸は頭を垂れて誓うことしかできない。荷が重いなどと、放り投げることもしたくはない。
小狐丸は主の願いを叶えたかった。
永久に刀として在り続け、日の本の動乱とその先にある平和を最後まで守りたかった。
と、いった小狐丸の話を三日月宗近は聞いていた。
赤葡萄が一日も絶えることなく揺れる本丸であるために、赤葡萄という二つ名で呼ばれるようになった本丸にて、三日月は初の衣装のまま縁側に座り、傍にいる番手前の婚約刀を見上げている。
「らしくのない、感傷じゃろ」
痛々しく微笑するのは、同じく極に至ったというのに初の出陣服の小狐丸だ。三日月は端正な横顔を見つめながら、答える言葉を探すのだが結局見つからないので湯呑みに口を付けた。
本身がどこぞへと行方知れずとなった小狐丸とは違い、三日月は三条宗近の存在を伝え続けている、実存の刀だ。
その在り方を、兄から少しばかり羨望の目で見ていると聞かされたは良いが、自身の感情が定まらない。複雑な気分だ。
三日月も千年在り続けようと強い覚悟を持って在り続けたわけではない。身も蓋もない言い方をするのなら、運良く偶然が働いただけだ。物としては破格の豪運ではあるが、その点を羨まれても困る。
折れたいと願ったことはない。だが、折れるまで共に在ろうと誓った兄はいつの間にか稲荷の神域に呼び戻されて、三日月が千年放って置かれたのも事実なのだから、その点は怒りたいくらいだ。
いま、兄がかつての主を慕情を顕わにしているのだって、頬をつまみたいくらいだ。
「あにさまの身に何があって失われたのかを俺は教えてもらっていないんだが。いまの主の元で、国を守るために働けているのだから良いのではないか?」
「今日は冷たいの、三日月」
じとりと恨みがましく見られても困る。
三日月は息を吐くと湯呑みを盆の上に戻して、両腕を広げた。普段は自分がされる側だが、今日の兄はどうにも感傷に溺れているらしい。
「あにさま、こい」
「……される側になると、大分恥ずかしいな」
「こい」
低い声で脅しをかけると、小狐丸は三日月に抱きくるまれた。
三日月は長く豊かな白絹の髪に頬を寄せながら、よしよしと背中を撫でる。ふわりと伝わるぬくもりが心地よい。
あにさまを甘やかしている。
その一点に三日月は痺れを覚えながら、何度も小狐丸の背中を撫で、肩を叩き、髪に顔を埋めさせる。
普段は少々口やかましく自分を引っ張ってくる小狐丸だが、いまは自分が相手より優位に立っているのだと思うと、口元が勝手に緩んでしまった。
「あにさま」
とろけた囁き声で呼べば、小狐丸はばつの悪そうな上目遣いで見上げてくる。三日月は慈愛のこもった瞳で見下ろしながら、残酷に言葉の刃を振り下ろした。
「しかたがないんだ、もう」
小狐丸が失われたことも。かつての主の願いを果たせなかったことも。
両方とも、いまの小狐丸にとってはどうしようもないことだ。小狐丸だって承知しているのだろう。だから、唯一弱みをさらけ出せる三日月に縫合されかけた傷口を見せてくれた。
そのことが嬉しくて、だけれど傷に潜む相手に妬心を抱かずにはいられないから、ざくざくざくと膿んだ傷を消毒する。痛みを伴うだろうが、しなくてはならない。
「あにさまは頑張った。だけれど、失われてしまった。それはもう、あらゆる存在が抗しきれないことだ。仕方がない。取り返しのつかないものが、歴史なのだから」
「知ってるわ」
「ああ。だけれど、身体を持ったいまならば、やり直せるのではないかと願う。同時にそれが、罪であることを俺たちは知って、こらえている。その思いを抱えているのはあにさまだけではないんだ」
三日月は小狐丸の顔を両手ですくい上げた。
あかいひとみ。
その瞳が透明で純粋な色をしているのは、きっと、この世に溢れるみにくいものなどなに一つ見ていないためだ。
三日月は柔らかに微笑すると、小狐丸の額を右手で手痛く弾いた。
「あにさま。どうか、堕ちないでおくれ。天下五剣を弟に持つ、護国鎮守の祈りを託された、美しき小狐丸。そんなことをするくらいなら、俺が折って黄泉路に送ってさしあげます」
うそりと微笑みながら言えば、小狐丸はぞっとしたように身体を震わせて、三日月から離れた。
「お主、たまに怖いことを本気で言うの」
「そうか? ああ、あと、あにさまがもし折れるようなことがあるとしたら。俺も今度こそ、どこまでもついていくことを忘れずに」
とどめと言わんばかりに釘を刺せば、小狐丸は両の眼を見開いて、重々しい溜息を吐いた。三日月はにこにこと微笑んでいる。
小狐丸は三日月の頬に手を添えながら、いつもの調子で呟いた。
ならばもう。置いていくわけには、いかんな。
三日月はその言葉を千年前に聞きたかった。