38.囚われの鳥

 紅い菫が伸ばせる限り自身を大きく見せる本丸であるために、その本丸は紅菫の本丸と呼ばれるようになった。
 紅菫の本丸にも例外なく訪れた大侵寇の波濤が過ぎ去って、刀剣男士も警戒を解いて穏やかに眠れるようになった夜に、小狐丸は一人縁側に座って月を眺めていた。
 身勝手に飛び出して、また自分勝手に戻ってきた月は見つけられて少々居心地の悪い思いをしていた。面には出したくないので、表面上は常と変わらない笑みを薄く浮かべている。
 小狐丸の様子も普段と変わらない。夜着のまま、穏やかに声をかけてくる。 
「おかえりなさい」
「また、すぐに出る」
 ただいまは言えなかった。言ってはならなかった。
 そのために、代わりに口から出てきたのはかわいげの無い言葉だ。数日後には修行に出立するため、間違いではないのだが、もう少し素直に迎えてくれたことを喜んでもよかった。
 だけれど、できなかった。
 紅菫の本丸の三日月宗近は政府から下賜された刀だ。元より謎めいて一線を引くところがある三日月宗近の中で、さらに距離を作る性質を備えていた。小狐丸に惹かれているというのに、あえて疎まれる態度を取ってしまう。不器用で、繊細な一振りだった。
 小狐丸は生来のものなのか、三日月の態度に慣れたのかは不明なままだが、不愉快な態度を取られても気を害することがないようだった。
 いまだって、言うのだ。
「では、またおかえりになった時に。もう一度言いましょう」
 三日月が戻ってくる時のことを待っていてくれる。優しさが細い錐となって胸を抉ってくる。
「お主は、怒っていないのか?」
 今回の大侵寇で三日月が勝手に出ていったことに、泣き出した短刀もいれば心配してくれた脇差もいる。不機嫌になった打刀に、手厳しい視線を向けてきた太刀もいれば、呆れた大太刀の一同に、脱力した槍と困った顔の薙刀の面々、さらに無表情で見つめてきた剣など、全ての刀が三日月に反応を示した。
 唯一、距離を置いていた刀が小狐丸だ。
 一番怒られたかった刀だというのに。
 三日月が知らず拳を握っているのにもまた気付かずに、小狐丸は首を傾げた。口元には柔らかな微笑が浮かんだままだ。
「何を怒るのです」
 つまらない言葉を聞いてしまった。これほどまでに聞きたくのない、つまらない言葉は初めてだ。
「私は、歌仙兼定が怒って貴方を連れ戻したことしか知りません」
 紅菫の本丸の古参にいて、近侍である乱とも仲が良い。手伝いを頼まれたら気軽に請け負い、細かなところまで目のいく小狐丸は本丸の全ての存在から頼られている。
 しかし、実際は遠い刀だ。
 手を伸ばしても幻影しか残らずにするりと避けられてしまう。どうしても、その手をつかみたいのならば己から近づいて捕まえないといけない。
 だけど。
 それが、三日月にはできなかった。
 立ち尽くし、うつむく。稲荷の子は月が直視してよい存在ではない。
 小狐丸が立ち上がった姿が見えた。近づいてきて、通り過ぎていく。
 その前に、大きな手が三日月の頬に優しく添えられた。三日月は顔を上げる。視線を合わせるために少しだけかがんでくれている小狐丸の唇が動いた。
「もしかして、貴方は私のことを望んでくれているのでしょうか」
「そんなこと」
 ないとも、あるとも言えない。
「それは残念」
 欠片も心残りだとは思っていない口調で言ってくる。添えられた手が離れる瞬間に、三日月の手が伸びた。
 つかまえようなどとは考えられなかった。
 だけれど、ずっとずっと欲しかった。
 小狐丸に包まれることを望んでいた。
 三日月から伸びた手をつかみ、小狐丸は三日月を自身の腕の中へと包み込んでしまう。
 叶わないと信じ込んでいた願いが、叶ってしまった。その驚きに言葉が消える。伝わる温もりが幻ではないと伝えてきても、まだこれは夢なのではないかと、鼓動が早鐘の速度で打ち響く。
 初めて触れた熱の愛おしさに瞳が潤むのを、止められない。
「俺には」
「はい」
 喉が絞られて、声がかすれた。それでも言わなくてはならないことがある。
「どの刀からも心配される権利など、ないんだ」
 沢山、折ってきた。
 数多の嘆きを背負う身で、自身だけ大切に気遣われるなど恥知らずもよいところだ。
「わかりました。心配なんて、もう二度としてあげません。ただ、信じます。この先に貴方に何が起ころうとも、何をしようとも。三日月宗近という刀のことを信じていきます」
「裏切ったらどうするんだ」
「そんなこと、私の責任ですよ。貴方が気にすることではありません」
 喜び以上に切なさが胸を刺して、斜めに裂いて破裂してしまう。傷口から溢れる血は透明な色をしているため、どの刀にも見えないだろうが、三日月は確かに血が流れていくのを感じた。
「私を打つように望んでくれた主の話になりますが」
「ああ」
「彼の方は、自由という言葉を知る機会など一度も与えられなかった。狭い檻の中で、誰よりも尊い存在であることを押しつけられていた。それなのに、私に護国鎮守という祈りを託してくれたのです。あの方がいたから、望んでくれたから、私はいまここにいます。あの方の祈りの通りに戦うことを、選べました」
 時の帝について話す小狐丸の声に普段の主を慕う甘さや優しさなどはなかった。だからこそ一層に、小狐丸がかつての主をどれほど慈しんでいたかが、響いてくる。
「妬けるな」
 三日月が本音を少しだけこぼすと、小狐丸は髪を梳いてくれた。その指の強さに甘える。
 怒りすら与えてくれないのなら、せめてその腕で抱きしめるのは自分だけにして。
 乞い縋りながら目を閉じた。




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