30.吸血

 初夏だというのに、歩いていると汗ばむほど暑い日だった。
 九条小狐丸は幼馴染みと並んで川に出かけた。流れは速いというほどではなく、深さもなくとも、川に入るのは危険だと言われているため、水を感じて涼もうとしていただけだ。それだけだというのに、幼馴染みの様子がおかしい。川に近づくほどに震えて、小狐丸の手を強く握ってくる。
「どうした」
 尋ねると、幼馴染みの瞳に宿る月が濡れて輝いていた。
「あのな」
 そうして告げられた言葉は、風に流れて消えることはなかった。耳の奥に入り込んで脳に直接刻まれた。
 小狐丸はなんと答えたらよいかわからないまま、震える幼馴染みを抱きしめた。

 それから、十年後の話になる。
 小狐丸は大学へと進学した。すでに二年生になる。興味のあった民俗学を扱うゼミがある大学は少なく、その中でも偏差値の高い大学に入るのは骨が折れたが、いまは一つの欠けがある以外は満たされた学生生活を送っている。
 そして現在もあの時と同じく、初夏だ。
 あの川に逃げたときと違い、大学の図書館は冷房が効いていて涼しい。地下一階の奥の書棚を見て歩いていたが、聞き慣れた声に呼び止められて立ち止まった。
「勉強熱心だな」
 声をかけてきたのは、幼馴染みの三日月宗近だった。
どうしてか、小狐丸に執着をしていて、大学まで追いかけてきた。特段嫌悪を覚えるほどではないのと、もう一つの理由のため、いまは放置している。相手はするが、それだけだ、
「来年度の給付生には選ばれたいので」
 小狐丸は素っ気なく勉強に熱を込める理由を答えた。そのまま三日月に背を向ける。
 三日月は一歩ずつ近づいて、小狐丸の後ろに立つと服の裾を引いた。小さな力だ。
 それでも、三日月が言いたいことは言葉よりも雄弁に伝わってきたため、溜息を吐いてしまう。内心では喜悦と蔑みが半々となって身を裂きそうになっていた。
 振り向く。三日月の頬は赤く上気していて、獣が水を欲しがるのに似た様子で舌の先を出している。呼吸も荒い。
 三日月のこの様子がただの体調不良のせいではないことを知っている。
 小狐丸は左の親指を自身の犬歯に当てると、深く歯を立てた。血がぷつりと球になって浮かぶ。
 猫に乳を与える軽さで差し出すと、三日月はゆっくりと小狐丸の両手に触れた。
 むしゃぶりつく。
 先ほどまでは感じられなかった歯の尖りが、破いたばかりの皮膚をさらに裂いていく。じゅ、じゅっと浅ましい音を立てながら三日月は恍惚とした表情で小狐丸の血を吸っていた。
 目の前にいる非凡な美しさを持つ幼馴染みが吸血鬼だと知ったのは、十年前からだ。あの川に行った日に告白をされた。
 三日月は流れる川に恐怖を覚え、強すぎる日光を浴びると肌が崩れてしまう。それらは確かに吸血鬼の特性だ。
 あとは、小狐丸のことを好いているという。
『俺のものにはしないから、小狐丸の血が欲しい』
 そう口にした時の三日月の涙が忘れられないために、小狐丸は絆されているのだろう。吸血鬼にはならない。ただ、血は与えている。
 三日月は慎ましいのか、明確に血が欲しいと訴えることは少ない。ただ、いつも物欲しげに見つめられる。その目を見る度に、小狐丸は苦しくなる。
 貴方が欲しいのは私なのか、それとも私の血なのか。
 知りたいことだが、問うてはならない。
 ただ、三日月を愛している小狐丸はその疑問の狭間ですりつぶされている。
 惹かれているために血が欲しいのか、幼馴染みであり秘密の共有者であるためにたかられているのか。
 どちらにしろ、小狐丸は三日月に血を与え続けるのだろう。
 熱く湿った息を指に受け、まるで口で愛撫するみたいに三日月は小狐丸の指を吸い、舐め、しゃぶっている。目の端は赤い。発情すらしているようだ。
 小狐丸は三日月の唇を上に押し上げていき、開かせる。鋭い牙が覗いていた。じっと見つめた後に、唇を重ねる。
 小狐丸の口には自身の生臭い鉄の味しかしないのだが、三日月はこれを美味と思っているのだろうか。
 目を開いたまま、小狐丸は三日月を見下ろす。口付けられた三日月は長い睫毛を震わせるだけだ。
 その艶にすら興奮する己が、小狐丸は大嫌いだった。
「落ち着きましたか」
 唇を離し、問いかけると腕を背中に回される。
「足りないな」
 胸板に頬をすり寄せながら、潤んだ瞳で三日月は言う。
 小狐丸にとって、逆らえない一言を口にする。
「お主が、ほしい」
 たとえこの身体が目当てであるとしても、そう乞われてしまったら、小狐丸は三日月に全てを与えてしまう。
 たとえ報いがないとしても。



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    こぎみかとリクサラを主に、世界を大切にしつつ愛し合うカップリングを推しています。

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