ヴァレンタインを目前とした、何もない日のことだ。
時計の針が二度目の十を越えた頃に、千午村正は布団の上であぐらをかきながら料理の本を読んでいた。特段趣味として凝っているわけではない。だが、最近は食べさせる相手がいる。サーヴァントは太らないものだというのに、その相手は料理に糖質が多いと気にし出すので、満足感がありつつも脂質や糖質は控えめなものをと頁をめくる手、本文を読む目は真剣なものになる。
その途中にマスターである藤丸立香による、か細い声が頭の中で響いてきた。村正は顔を上げる。
『村正、村正……頼む、カーマを……!』
「はいよ」
気楽に応えて立ち上がった。レシピ本は布団の上に置いておく。ケーキの表紙がもの悲しく村正を見送った。
部屋を出た村正は迷わずに立香の自室まで来る。
そうして立香のベッドで雑誌を読みながら横になっているカーマをよっこいせと持ち上げながら小脇に抱えて、出て行った。
「ありがとー!」
「何するんですかー!」
立香の感謝の声とカーマの悲鳴が同時に響き渡った。耳を押さえたいところだがそれもできずに村正はカーマを俵担ぎに持ち直して、言う。
「早く眠らねえと肌に悪いんだろ」
まだ眠らずに酒宴をしていたのか丑午前、たまたま通りがかったニトクリスといった視線を集めながらも村正は堂々のしのしと自身の工房に向かって歩いていく。セイバーのメドゥーサには一度険しい視線を向けられたが、何も言われなかった。
村正は工房に入り直すと布団の上にカーマを落とす。「きゃん」と可愛い悲鳴が上がった。その後に頬を膨らませながらぺたりと座る。
いまのカーマの姿が、普段の紫の衣服とは異なることにようやく気付いた。
「お前さん、その格好で眠るつもりだったのか?」
立香のところに転がりこんでいたのだからそうなのだろう、と思いつつも尋ねると腕を組まれる。
「いまは夏の霊基を望まれていますからね」
「冬なのにか」
「ルーラー退治で忙しかったんです」
確かに立香は以前に江戸の特異点に出向いていて、そこではぐれサーヴァントのルーラー相手にカーマが何度も戦う羽目になっているたことを思い出した。
とはいえこのまま眠りに就くのは村正が落ち着かない。
「こんな服だと腹が冷えるからな。待ってろ」
「サーヴァントだから冷えません!」という声を聞きながら、村正はまた違う場所に向かっていった。
目的地はとある妖精騎士のところだ。歓迎はされないだろうがすげなくもされないだろうと考え、廊下を歩く。
閉じられている扉を叩く。
「おーい。トリスタン」
「なあに? 珍しい相手ね」
そう言って出てきたのは妖精騎士トリスタンであり、パー・ヴァンシーであり、ミコケルでもあるややこしい相手だ。かつての夏の騒ぎの中心にいたものを模した温かそうな布を被っている。
村正はかくかくしかじかと、カーマに寝着を貸してもらいたいと簡潔に話した。それにパー・ヴァンシーは面白そうに笑う。
「別に貸してもいいけどよ。まだ着ていないパジャマとかあるし」
「悪いな。今度何か払う」
「そんな気にすんな。でもまあ」
パー・ヴァンシーは丁寧に整理されている服の詰め込まれた棚から、一式の寝着を取り出すと村正に渡す。ぱちりとウインクをされた。
「礼をくれるなら、本と、あとあんたとカーマとやらの話でいいぜ」
「安いもんだな。あんがとよ」
村正がパー・ヴァンシーの部屋を出て行き、自室兼工房に戻るとカーマは布団を被っていた。寒くないとは言っていたが落ち着かないようだ。
村正は威嚇する猫を怯えさせないために距離を縮めないまま、借りた寝着をカーマに向かって投げる。
「ほれ」
「ありがとうございます」
変わらず「サーヴァントは風邪を引かないのに」などと呟きながらも、カーマは着替えようとする。村正は後ろを向いた。正面から見ていたら脱ぐものも脱げなくなるだろう。
ぱさ、はさ、と衣擦れの音に動揺することなく村正が目を閉じていたら、後ろに冷たい気配がした。
首を向けるとカーマが抱きついている。村正の腰に腕を回しながらうつむいていた。
着ている寝着は兎の耳が飾りとしてつけられている白くてふわふわなものだ。丈は膝までしかない。これは赤い印象の強いパー・ヴァンシーよりも白い髪をしているカーマの方が、より一層着こなせる寝着だろう。
実際に、朴念仁の村正も可愛いという感想を抱いた。わしゃわしゃと様々なところをかき乱したい。滑らかな髪に癖を作って、つくところにはついている細い体に余すことなく触れて以前みたいに愛らしい姿を見せて欲しい。
その衝動を抑えて村正が見守っていると、抱きつかれたままでいると、カーマが急に顔を上げた。
「なんですか! 用意したのは、そちらなのに何もないんですか!」
「ああ。悪かった。可愛い」
言葉はするりと口から出た。カーマの顔が一気に赤く染まる。マスター相手でもわりと容易に赤面しているが、自分はもっと簡単にそうさせることができることに、らしくのない感情を覚えた。
その名前は優越という。
カーマはしばらく震えていたが、村正から腕を放さないまま首を横に振った。
「もう眠ります!」
「ああ」
いつまで現状のままでいるのもよろしくないので、村正はカーマに手を差し出した。
「こい」
それだけなのに。
大したことはしていないというのに。
自分には決して与えられないものを与えられた、物憂げな表情を浮かべるから儂はカーマを気にかけて、マスターよりもサーヴァントよりも近くにいたいと願うのだろう。
カーマは村正の腰から腕を放して手を預ける。村正は小さな手をつかんで、布団に向かい、そこで同衾した。村正が強くカーマを抱きしめて眠る。
「おやすみ」
「おやすみなさい、です」
サーヴァントに眠りは休息や栄養補給でしかないはずなのに、カーマは存外素直に眠りに就いた。目の前にある艶やかな唇に目を奪われる。
一瞬、触れてしまいたいという考えがよぎった。
だがそれは不誠実なので村正はカーマを抱きしめる腕の力を強くする。
おやすみ。良い眠りを、お前さんに。
20.おやすみ
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