翠の蓮が静かに佇んでいる本丸であるためにその本丸は翠蓮本丸と呼ばれている。他の本丸と異なるところはいくらかあるが、のんびりとした性質の審神者と刀剣男士の集っている本丸だ。
今日、その本丸は風が強かった。
秋であるためか、強く激しく風は吹いて葉という衣をまとった木々を裸にしていってしまう。がたがたと揺れる障子を見つめながら、極めているというのに非番であるため初の姿の出陣衣装で事を済ませている小狐丸は現実から逃避していた。
「甲高く風の過ぎる音が鳴っているな」
しみじみとした調子で言うのは三日月宗近だ。小狐丸と同室だが、刀剣男士とはいささか違っている。体が女体で顕現してしまった。その希少性によるものか、もしくは異常性によるものか出陣の機会は少ない。だからいまだに修行に行けないので小狐丸と並んで戦場に立てないことに頬を膨らませている。それでも本丸に小狐丸がいると後をついて離れようとしなかった。小狐丸も恋刀である三日月が傍にいてくれると嬉しいので、特段咎めはしない。
しないのだが。
「風は鳴っていますが……三日月」
「ん?」
「どうしてそれほど風にめくれやすそうな格好をしているのですか」
いまの三日月は作務衣による内番姿でも、初の姿の青い狩衣でもない。
どこで手に入れたのかは知らないが紺色を基調とした長い筒状の衣服の上に白い飾り布がついた掛け布を身につけていた。
小狐丸はその衣服の名称を知らない。だけれど、女性が着るものでそれも一種の性癖に基づくものだというのは察しがついた。三日月は小狐丸を誘惑するという名目でたまにおかしな格好をする。今回も小狐丸を翻弄させたいのだろう。意図がわかっていたため黙っていたのだが、そろそろ言わずにはいられなかった。
三日月は立ち上がって服の裾を掴みながら、首を愛らしく右側に傾ける。
「似合わんか」
「似合います。大変可愛らしい」
即答してしまった。
どういった意図で必要とされる服かは不明であるが、落ち着いた佇まいといった印象を与える紺色の腰から足首にかけて柔らかに膨らむ線がどことなく心を上向かせる。三日月が立ち上がって動くたびにふわりふわりと揺れるのは思わず掴んで抱き寄せたくなってしまう。
だからこそ、困るのだ。
小狐丸にとって三日月は可愛らしい恋刀ではあるが妹でもある。迂闊に手を出すことはできない。そのため、いつだって理性とのせめぎ合いを強要されるのだが、いまのところはかろうじて連勝を続けていた。普段は野生と口にするが、そのまま行動したら大変なことになるのもわかっている。
壊したくない。大切にしたい。その花の笑顔を守りたいから。
肝心の三日月がいくら不満に思おうともまだ一線は越えられない。
だというのに、三日月は手を出されないのを不満とばかりに誘惑してくる。困ったものだ。
小狐丸が目を閉じて腕を組みながら傾くと三日月は膝を畳につけたまま側に寄ってくる。
「似合うのならばいいだろう? 何。あにさまにこういう趣味があっても俺は許してやるぞ」
その後に「俺以外を見たら許さんがな」と続くのでぞっとした。三日月は本気だ。
小狐丸は目を開ける。
「貴方は何様ですか」
「国宝だ」
言われてみればその通り、としか返しのできないことを口にされた。どこぞと消えた物語の刀よりも現実に千年あり続けた刀の風格を思ってもみない形で感じてしまう。
決して小さいとは例えられない大きさの膨らみを張りながら三日月は小狐丸に擦り寄ってくる。
「可愛いだろう? 抱きしめたいだろう。好きにしていいんだぞ」
「どうしてそんな格好を始めたかの方が気になるのですが」
「何を些細なことを気にしているんだ。あにさまは据え膳すらも食べない相手だったのか」
そう口にする三日月は当然、自分が誘っていることを自覚していて、あらゆる箇所を小狐丸のために整えていることを隠そうとしない。匂いすら甘いのだから困る。普段が澄んだ甘さなら今日は赤い果実の濃厚な薫りがする。そういった水も着けた可能性もあった。
ついに首に腕を回されて甘えられながら、小狐丸は強く言う。
「だから、私は普段の三日月も愛らしいのにどうしてそんな格好をしたのかが知りたいのですよ」
普段の初の姿の三日月も、内番の格好の三日月も両方とも愛らしい。優雅さと呑気さと、青がよく似合う姿をするのが三日月宗近だ。それなのに今日は日の落ちた夜を薄く身に纏っている。それもまた、いい。
いいのだがどうしてそんなことを始めたのかは気になる。自分への誘惑以外にも理由はあるのではないか。
月が落ちる宵の瞳を覗き込んで尋ねるのだが真っ直ぐに見返してくる三日月の唇は動くと、思いがけない言葉を発する。
「秘密だ」
小狐丸はがっくりと肩を落とした。
もう相手にするのも諦めようかと立ち上がりかけるが、その前に素早く三日月が小狐丸の膝の上に乗ってくる。腕は変わらず首に回されたままでこれでは振り落とさないと動けはしない。
「なんなんですか、もう」
「言わないとわからないのか」
「わかりません」
刀であった頃はなんとなくで意思疎通ができたのかもしれないが、いまは人の身だ。考えている方向が違いすぎて複雑だから教えてもらわないと理解できない。
三日月は仕方がないなあという顔をしているというのに、口元を笑みで彩り目を細めて、小さく口を小狐丸の耳元で動かした。
「ご主人さま」
「っ」
不意打ちの言葉だった。
それだけが全てだというように三日月はあとはくるくる甘えてくるだけだ。頬を小狐丸の胸板にすり寄せて、身を預けてくる。
こんなことでやられてしまう、自分の未熟さが悔しかった。刀である自分が主となることに喜びを見出すなんて。
三日月が服従することに紛れもない幸福を、抱くなんて。
兄として情けないし恋刀としてみっともない。
「ふふ、主に対するあにさまの態度を見てやきもきする俺の気持ちが少しはわかったか」
「わかりました。申し訳ありません、でもぬしさまはぬしさまなのです。三日月」
「うん。俺も主は好きだ」
それでも小狐丸と三日月を繋ぐ細い鎖がある。誰も、どの刀も割り入れない。壊しなどさせない。
三日月はそれを証明したかっただけなのだろう。
とはいえこのまま上手に立たれるのも癪だったので、小狐丸は三日月の額に唇を寄せる。ぴくん、と反応した隙に畳の上に三日月を置いて覆い被さった。両の腕を柵にしてしまえばもう逃げられない。
眼下にはこうなることはわかっていたとばかりに微笑む三日月がいた。
15.風に吹かれて
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