理性の楔

 雪解けの透明な水の中に密やかな橙の小花が紛れて流れていく。
 一年もの間、絶えず金木犀が咲いている本丸であるために、その本丸は金木犀の本丸と呼ばれるようになった。
 季節は如月の頃となり、まれに雪が積もることもあるが、二日三日もしたら雪は溶けてさらさらと下流へ落ちていく。この時期に雪よりも楽しみとされるのは霜柱だ。朝になって、誰も踏みしめていないところを見つけた短刀は勢いよく自然の芸術を踏み砕く。
 そうして日常は流れていき、夜も更けたいま、小狐丸は自室にてじりじりと距離を詰めていた。同室であり、恋仲である三日月宗近に狙いを定めて、彼の刀の余裕を削り取る作業を進めていた。
 本来ならばこうした強引な閨の作法を小狐丸は得意としていない。折角の睦み合う行為なのだから、同意の上でたっぷりと甘やかして、歓喜の涙を流させたいところだ。
 だけれども、金木犀の本丸の三日月宗近は矜持が高く、生半可なことで折れはしない。正面から攻めたら躱されて、搦め手を使えば軽蔑の瞳を向けられる。だから、小狐丸は機をうかがいながら、三日月を部屋の隅へと追い込んでいた。上から襲いかかると怯えられるので、座り込んだ白い夜着の三日月と目線を合わせるように、膝でにじり寄りながら距離を詰めていく。
「三日月殿」
 哀切と共に囁きかけると、三日月の目がすっと逸らされた。言葉にしがたい凄惨であろうとも、見るに堪えない残虐であろうとも、歴史の流れを千年ひたすらに眺め続けてきたというのに、いまになって、小狐丸のことは正視できないとささやかな抵抗をする。
 三日月の背が壁に当たり、もう逃げ場がなくなると、小狐丸は三日月の手首をつかんだ。戦うための刀剣男士であるがために、三日月もまた立派な体躯を誇っているが、小狐丸に比べれば細くてしなやかだ。
 いまだ目を逸らし続ける三日月に顔を寄せて、あらわになっている耳殻に向けて、そっと言葉を落とし込んだ。
「今宵、狐と踊りましょう」
 かっと、まさにかっと、三日月の頬が赤くなった。つかまれている右腕ではなく左腕をさまよわせる。
 そして、三日月は正面から偶然つかんだ書物を小狐丸の顔に叩きつけた。あまり、厚みのない草紙であったのが幸いして、被害は鼻がじんじんする程度で済んだ。
 小狐丸は変わらず、三日月の手首をつかんだまま、ただじっとりと見下ろす。三日月は今度は小狐丸を正面から見つめたが、やがて徐々に頭を下げていき、可愛らしいつむじと双葉の癖をさらけ出した。
「すま、ない」
 その声を聞かなければ、もっと強引でいられたのに。
 三日月の心から申し訳なさそうな声に、小狐丸は自身こそ余裕がなかったと思い知る。いままでつかんでいた手をぱっと放して、三日月を自由にした。
 諦めは付いた。だからといって、一度、火の着いた情欲を簡単に消すことはできはしない。ぬるま湯でも浴びて、熱を冷まそうかと部屋を出ていく。
「私のことは、お気になさらず」
 その一言だけを残して、ぺたりぺたりと板敷きの廊下を歩いていく。
 すでに宵っ張りも床について、灯りのない本丸は寒々しい。普段は百を越える刀が入り乱れて生活をしているというのに。
 小狐丸は思い、だからこそ最近の三日月と二振りだけになれる時は貴重で、がっついてしまうことを恥と思った。
 三日月殿は気高いだけでなく、大変貞淑です。だからこそ、もっと遠慮しなくてはならないというのに。本音をいうのならば、この腕の中でどこまでも甘やかしてしまいたいのですから。
「恋とは本当に道がないものですね」
 ぽつりと言葉を洩らし、足を止めた。
 背中にある。温もりがある。誰かが自身の背に身を寄せている。
 小狐丸がゆっくりと振り向くと、そこには三日月がいた。
「戻るぞ」
「狼を閨に引きずり込んでもよいのですか?」
「お主は狐だ」
 もっともな返しをされて、小狐丸は笑った。そして、三日月の言うことに従った。わずか二間ほどの離脱を防がれて、同室である部屋に戻る。
 室内に入ると感じる暖気は外とは大違いで、小狐丸は温もりを求めて自身の布団に潜り込んでいく。すると、三日月も小狐丸の布団へと入り込んできた。
 憧れの兄刀と同衾している事実に、心臓が跳ね上がる。小狐丸はゆっくりと、ゆくりと時間をかけて三日月を両腕に囲い込んだ。三日月は大人しく抱きしめられている。
「すまんな。いつも、世話をかける」
「いえいえ。こちらこそ、焦りすぎました。今度からもっとじっくりと距離を詰めることにいたします」
 三日月と小狐丸の追いかけっこはいつものことで、三日月は事に及ぶとなると恥ずかしがって逃げ出し、小狐丸は事に急いて慌てながら追いかける。
 何度やっても飽きないのだから、私はよほど三日月が好きなのでしょう。
 小狐丸は三日月の顎から耳にかけてに触れながら、目を合わせる。月を宿した宵の瞳を射止めるようにして、のぞき込んだ。
「いつも逃げる、理由を聞いても?」
「だってな。全部が、かき乱されるんだ。普段の俺は何事もゆったり構えていられるというのに、お主に迫られると、俺のままではいられなくなる。それが恥ずかしくて、逃げ出してしまいたくなるんだ」
「確かに、私は三日月殿の全てを剥いて、暴いて、舐めしゃぶって。食べ尽くしてしまいたいですね。あながち鋭い警戒をしているかと」
 いまだってそうだ。ゆるりとした愛撫ではなく、一枚しかない夜着を奪い取って、滑らかな皮膚に舌を指を滑らせたい。精液も体液も残さず舌の上で踊らせて、腹の中に落としてしまいたかった。
 だけれど、三日月はその愛撫にまだ怯えている。自身よりも長く現世に在り続けたというのに、まったく初心な刀だと可愛らしくて仕方ない。
「三日月殿」
 名前を呼び、また、視線が絡まる。小狐丸は右腕を三日月の背中から腰、臀部へと撫でさせすりながら、耳元でまた甘く囁く。
「恋うています。乞うています。どうか、私に情けをください」
「お主は、だから、いつも」
 それ以上の言葉は唇で吸い取った。
 小狐丸は触れる。時間をかけて三日月に触れる。耳の裏に吸い付き、涼やかな薫りを吸い込んでから、喉の筋をペロリと舐めた。見えない場所に、朱い痕を刻むのも忘れない。
 私のものです。
 この刀は、幾度所有者が変われども、最後は私がいただくのです。
 呪いのように愛を残し、三日月の様子をうかがうと、すでにとろけ始めていた。口が少し開き、元から重たげな瞼がさらに瞳にかかっている。
 小狐丸はもう一度正面から、三日月に口付けた。今度は三日月も腕を伸ばす。小狐丸の首元に両腕を絡めて、伸ばされた舌におずおずと応えてきた。三日月の唾液はどうして、とろみがあって甘いのかと、いつも不思議に思う。
 そうして、右手が触れるのは三日月のやわらかで繊細なところ。触れる度に身体を跳ねさせて、瞳で小狐丸に縋るのだからたまらない。
 溺れていく。
 夜の恋戯に月と狐は共に沈む。
 理性という楔は、すでに互いの手から放された。


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